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日本語の美しさ6

第251回 日本酒の味の表現1

千駄ヶ谷日本語教育研究所がある高田馬場には、常時40種類以上の日本酒を取り揃える居酒屋があります。銘酒リストをめくると、「スパッと切れる辛さを持ちつつ、芯はしっかりした味わい」とか、「まろやかな口当たりとキレのよい後味」といったように、ひとつひとつの銘柄の持ち味が簡潔な文で的確に表現されていて、読んでいるうちに全部飲んでみたいという衝動にかられます。

冷酒もよし、ぬる燗もよし、熱燗もまたよし、と、日本酒にはいろいろな楽しみ方がありますが、微妙な味わいの違いの裏には、幾つかの要素が関係しています。それを踏まえた上で味わいを言葉で言い表すには、豊かな表現力も望まれます。

今回は、日本酒の味の表現について取り上げます。(に)

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第252回 日本酒の味の表現2

味覚を表す言葉として、「酸っぱい・苦い・甘い・辛い・しょっぱい」があります。これは、五味と呼ばれ、中国の五行思想(注)を起源とするものであり、味覚を表す基本的な概念とされていますが、日本酒の味覚と言うと、まず思い浮かぶのが甘口と辛口でしょう。これには段階があって、超甘口から超辛口まであるわけですが、辛口と言っても、料理の味を表現するときの「辛い」と、日本酒の「辛い」は同じではありません。料理の味を表現する際の「辛い」には、唐辛子のような辛さがあります。それに対して、日本酒の場合、日本酒のエキスが多いということを「辛い」と表現します。この味は唐辛子のような辛さではありません。

注)五行思想:古代中国に端を発する自然思想で、万物は木・火・土・金・水から成るというもの。味覚については木(=酸:酸っぱい)・火(=苦:苦い)・土(=甘:甘い)・金(=辛:辛い)・水(=鹹:しょっぱい)の五味から成ると考えられています。

(に)

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第253回 日本酒の味の表現3

日本酒の辛さは、「酒度」という数字で表されていますが、これは、水に対する酒の比重を日本酒度計で測定したもので、日本酒中の糖分が変化することで比重も変わることからはじき出される数値です。目安としては、+6以上は超辛口、+5.9~+3.4は辛口、+3.4~+1.5はやや辛口、+1.4~-1.4は普通、-1.5~-3.4はやや甘口、-3.5~-5.9は甘口、そして-6以下は超甘口となります。しかし、ここからが奥の深いところで、必ずしも酒度が高いというだけで「辛い」、低いというだけで「甘い」と表現し尽せるものではないのです。(に)

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第254回 日本酒の味の表現4

日本酒の場合、酒度が高ければ「辛い」、低ければ「甘い」と表現されるのが一般的ですが、味覚を構成するものとして、更に幾つかの要素が加わります。その一つが「酸度」です。文字通り、日本酒に含まれる酸の総量で、「酸度 1.3」とか「酸度 2.0」というように表わされます。酸には味を引き締める働きがあり、酸が少ないと、酒の味にキレやハリ、コクが無くなり、ぼやけた味わいになる傾向があると言われています。そこから、「濃醇(のうじゅん)」・「淡麗(たんれい)」といった表現が生まれてきます。そして、この数値が高いと「辛い」、低いと「甘い」と感じるようです。先ほど取り上げた酒度も辛口と甘口の根拠になるわけですが、更にこの酸度との掛け合わせで日本酒の味覚がおおよそ予測できるというわけです。(に)

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第255回 日本酒の味の表現5

前回までに、日本酒の酸度と酒度が出てきましたが、酒度が高いと「辛口」、低いと「甘口」、酸度が高いと「濃醇」、低いと「淡麗」ですから、この二つを掛け合わせることで、それぞれの日本酒の味覚を表現することができます。例えば、酸度が高くて酒度も高いものだと「濃醇辛口」、表現すると「コクのある辛さ」、酸度が低くて酒度が高いと「淡麗辛口」、これは「すっきりとキレのいい辛さ」となるでしょうか。それに対して、酸度が高くて酒度が低いと「濃醇甘口」、これは「コクのある甘口」、酸度が低くて酒度も低いと「淡麗甘口」、さしずめ「すっきりとキレのいい甘口」ということになります。

しかし、これでは表現としてまだ足りません。日本酒は舌で味わうだけではないからです。(に)

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第256回 日本酒の味の表現6

前回、酸度と酒度の掛け合わせで日本酒の味覚の想像がつくというお話をしましたが、日本酒の種類によって、香りがかなり変わってきます。お店で日本酒のリストに出てくる「純米」「本醸造」「吟醸」といったものです。こうした種類は、国税庁の「製品品質表示基準」に定められており、それに従って表示されています。大雑把に言うと、精米歩合70%以下(玄米の外側を30%以上削った米)の白米と米麹、水だけから作られるのが純米酒、純米酒の原料に10%以下の醸造アルコールを加えたものが本醸造酒、精米歩合60%以下(玄米の外側を40%以上削った米)の白米と米麹、水に10%以下の醸造アルコールを加えて、低温でゆっくり発酵させて丁寧に作られるのが吟醸酒となります。そして精米歩合が50%以下となると「大吟醸」と称することになります。こうして、使用される米とアルコールとの兼ね合い、製法の違いから、「華やかな香り」「フルーティーな香り」、「上品な香味」といったように表現される香りが加わり、日本酒の味わいを更に奥深いものにしていきます。(に)

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第257回 日本酒の味の表現7

こうして見てくると、純米、本醸造、吟醸といった種類の中で、さらに酸度と酒度の違いから日本酒の味覚が表現されることになります。例えば、本醸造で酒度+5、酸度1.1というある日本酒の場合、醸造元の謳い文句は「飲み口の良いスッキリとした辛口のお酒。上品でやさしい香味。」となっています。しかし、同じ銘柄でも純米酒で酒度+2、酸度1.1となると、どうでしょう。酒度が落ちる分、スッキリ感が和らぎ、「ほのかな芳香、たおやかな味わい」という表現です。今度は別の銘柄で酒度+4、酸度1.4の純米吟醸となると、「華やかすぎない穏やかな吟醸香。独特の優しい果実の香りが心地よく、純米吟醸ならではのやわらかなコクのある旨味。純米造りだけに吟醸に比べるとややキレが悪いかもしれないが、まったりとした旨味。」というように表現されています。いやはや、種類と酸度、酒度の組み合わせで、味覚の表現が広がるようです。そして、「米どころの酒はやっぱり旨い」と言われるように、産地によっても味覚の表現が変わってくるでしょう。勿論、飲む人の好みやその日の体調によっても。皆さんも、もっともっと日本酒を味わってみてはいかがでしょうか。(に)

<参考文献>
・ウィキペディア「日本酒」「五行思想」
・甘口と辛口
・NHKラジオ第一放送「朝の随想」より『杜氏の話』
・日本酒ノススメ
・日本酒専科
・朝日酒造株式会社「久保田」
・八海酒造株式会社「八海山」

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第258回 刀にまつわる言葉1「相槌を打つ」

私は岐阜県の関市というところに生まれました。

関市(Seki)は、ドイツのゾーリンゲン(Solingen)、イギリスのシェフィールド(Sheffield)と並んで、「刃物の町3S」と呼ばれています。

実は日本全国で生産される包丁の半数は関のものなんですよ。

皆さん、ご自宅でお使いの包丁を見てみてください。

もしかしたら、関のものかもしれません。

さて、わが町関市では、毎年正月2日に「古式日本刀鍛錬打ち初め式」という行事が行なわれます。

これは、刀匠が鋼(はがね)を鍛錬し、関鍛冶の1年間の盛業と安全を祈る新春の恒例行事なんですが、脇座に立つ刀工の大槌と、横座に座る刀匠の小鎚が小気味良いリズムで刀を打っては折り、折っては打つという作業を行ない、不純物をたたき出し、鋼の硬さを増加させていきます。

このように、鍛冶が鉄を鍛えるときに、師弟が向かい合い、師の打つ鎚に合わせて交互に弟子が鎚を打つという様子から、相手の話に調子を合わせること、人の話に受け答えをし、頷くことを「相槌を打つ」と言うようになりました。

ちなみに、「相槌」「頷く」はひらがなでどう書きますか。

よく「あいずち」「うなづく」と書き間違えている人がいますが、正しい表記は「あいづち」「うなずく」ですので、皆さんも気をつけましょう。 さて、私たちの周りには、刀にまつわる言葉がたくさんあります。

次回から少しずつ見ていきましょう。

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第259回 刀にまつわる言葉2「たんとうちょくにゅう」「おっとり刀」

「たんとうちょくにゅう」という言葉を漢字にしてみてください。

「短刀直入」?「単刀直入」? 正解は「単刀直入」です。

たった一人で一本の刀を持って敵陣に切り込むことから、遠まわしな言い方をしないで、前置きを省いてすぐに本題に入り、問題の核心・要点を突く様を言うようになりました。「短刀」の間違いは、短く言うイメージから生まれたのでしょう。

間違いやすいものといえば、「おっとり刀」もそうです。「おっとり刀でやってくる」と聞いたとき、どんな様子を想像しますか。

「おっとり」という言葉から、ゆっくりと、のんびりとやってくる姿をイメージする方も多いでしょうが、実は全く逆の意味なんです。

「おっとり」とは、「押し取り」が「押っ取り」に変化したものです。「押し取り」の「おし」は接頭語で、「無理に奪う」という意味です。

急いでいるとき、作法どおりに刀を脇に差す余裕もなく、手に持ったまま飛び出すところから、緊急の場合にとるものもとりあえず駆けつける様子を指すようになりました。皆さん、間違って使っていませんか?(イ)つづく

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第260回 刀にまつわる言葉3「しのぎをけずる」「目抜き通り」

間違いやすいものをもう少し。

「しのぎをけずる」の「しのぎ」は漢字でどう書きますか。

「凌ぎ」?「鎬」?

答えは「鎬」です。

「鎬」とは、刀の刃と峰(背の部分)との中間にある小高くなっているところです。

その鎬が削れ落ちるほど激しく刀で斬り合う様を「鎬を削る」といい、刀を用いた争い以外にも激しく戦い、争うような熱戦を指すようになりました。たまに間違って表記される「凌ぎ」とは、耐え忍ぶ意の「凌ぐ」から来ているのでしょう。

では、人通りの多い通りや繁華街を指す「目抜き通り」の、「目抜き」とは何だと思いますか。

広く開けた通りで見通しが良いという意味で、目、つまり視界が先まで抜けるというイメージを持っている人が多いようです。

また、「生き馬の目を抜く」という諺をイメージして、油断ならない大都会の街だと思っている人もいました。

実は「目抜き」は、元々は「目貫」と書きます。

目貫とは、刀の身が柄(つか)から抜けないように差し止める釘やそれを覆う金具を指します。

一番目立つところなので、刀装具の中心となり、そこから、その町で一番にぎやかで目に付く通りを指すようになりました。(イ)つづく

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第261回 刀にまつわる言葉4「焼きを入れる」「付け焼刃」

青春ドラマなどを見ていると、不良学生などが「焼きを入れてやる」という台詞を言っていたりします。

私はずっと、タバコの火を肌に押し当てるような酷い仕打ちから生まれた言葉だと思っていましたが、これも刀にまつわる言葉でした。

「焼き入れ」とは、刀の刃を焼いた後、水で冷やして鍛えることを指し、そこから、だらけた気分を締めるために厳しい制裁を加えたり、拷問したりすることを指すようになりました。

「焼きが回る」という言葉も「焼き入れ」から生まれました。

焼き入れは時間や火加減が重要で、火が回りすぎるとかえって刃がもろくなったり、切れ味が悪くなったりします。

時間をかけて火が回りすぎることを「焼きが回る」といい、転じて、年を取って頭の働きや腕前、能力が衰えて鈍くなることを指すようになりました。

「焼き」といえば、もう一つ、「付け焼刃」という言葉があります。

「付け焼刃」とは、切れない刀(鈍刀)に鋼(はがね)の焼き刀を付け足したものです。切れ味が良く長持ちする刀は何度も地金を打って作られますが、鋼を付け足しただけの付け焼刃はすぐに切れなくなり使い物になりません。

つまり、見た目は切れそうに見えるけれど、実はもろくて切れないものを指し、その場しのぎ、一時の間に合わせに、にわか仕込みで覚えた知識や技術を言うようになりました。

あの人も焼きが回ったね、あの人の知識は付け焼刃だよとは言われたくないものですね。

(イ)つづく

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第262回 刀にまつわる言葉5「つばぜりあい」「鞘当て」「元の鞘に納まる」

つばぜりあい」と聞いて、どんな様子を想像しますか。

唾を掛け合いながら戦っているわけではありません。

「つば」は、「鍔」と書き、刀の柄(つか)と刀身との境目に挟み、柄を握る手を防護するものをさします。

お互いに相手の打った刀を自分の刀の鍔で受け止め、押し合うことを鍔迫り合いといい、そこから、激しく勝敗を争うことを言うようになりました。

「鍔」のほかにも、よく耳にする刀の装具があります。

「鞘(さや)」です。

「鞘」とは、刀の刀身の部分を入れる筒のことです。

「鞘当て」とは、武士が道ですれ違ったとき、お互いの鞘が当たったと、とがめたて、喧嘩になることを言い、そこから些細なことで生じる喧嘩を指すようになりました。

「鞘」といえば、「元の鞘に納まる」という言葉もあります。

刀は他の鞘にはなかなかうまく入らないそうですが、元の鞘にはすんなり入ることから、仲違いした者が元通り一緒になることを言うようになりました。

これは、若者も「あの二人、“モトサヤ”だって(一度は別れた二人がまた付き合うようになること)」のように使っているようですね。

このように、私たちの周りには、刀にまつわる言葉がたくさんあります。

昔から、刀が日本人の生活や精神に密着していたことの表れでしょう。

武士のいなくなった現代でも使われ続けているのは、私たち日本人のDNAの中に侍魂が残っているからでしょうか。(イ)

<参考>

関ぶらり観光情報http://www.sekikanko.jp/j/index.html goo辞書 大辞林

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第263回 音のイメージ1

いきなりですが、皆さんは「たゆたう」という言葉をご存じですか。ご存じない方は、この言葉はどんな意味だと思われますか。

数年前に見たミュージカルの歌詞の中に、こんなフレーズがありました。

「時の海にたゆたえ」

初めて聞いたとき、私は「たゆたう」という言葉の意味を知りませんでしたが、何となく物が波にゆったりと漂っているような様子がイメージできました。

家に帰って調べてみると、辞書には次のようにありました。

「たゆたう(揺蕩う) 1.ゆらゆら動く。 2.心が定まらず、ためらう」(『角川最新国語辞典』)

私が見たミュージカルの歌詞にあった「たゆたう」は、1の意味ということになるわけですが、その言葉の意味を知らなくても、私のイメージは当たらずとも遠からず。だいたい同じであったわけです。

初めて聞いた言葉だったのに、どうして私は何となく判断ができたのでしょうか。

この歌詞の場合は直前に「海に」という言葉がついていたせいもあるかもしれませんが、仮に「時にたゆたえ」という歌詞であったとしても、「時の波」のようなものにゆったりと漂う様子をイメージしたのではないかと思います。

それは「たゆたう」という言葉の音のイメージなのでしょう。

(中)つづく

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第264回 音のイメージ2

言葉の感性研究をされている黒川伊保子氏によると、商品企画の現場では、以下のような言葉の経験則があるそうです。

「車の名前にはCがいい」(例:カローラ、クラウン、セドリック、シビック等)

「女性雑誌はNとMが売れる」(例:ノンノ、アンアン、モア等)

「人気怪獣の名前には必ず濁音が入っている」(例:ゴジラ、ガメラ、キングギドラ等)

言われてみれば!という感じがしませんか。

商品やキャラクターの名前の企画現場だけでなく、私達の生活の中でも、「語呂がいい」「語感が強い」のような言い方をします。私達は「音」から何かを感じ取っているのでしょう。

実際、「音」には脳に潜在的に働きかける力があるそうです。企業名や商品名は経験的に知り得たその情報を利用しているということになります。

もっと具体的にどの音がどのようなイメージを与えるのかということについて研究し、理論化したものが「音相理論」としてまとめられているそうです。それぞれの音がどのようなイメージを与えているのかについて、次回以降、少し見ていきましょう。

(中)つづく

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第265回 音のイメージ3

「音のイメージ 1」で例に出した「たゆたう」を見てみましょう。

「た」の子音「t」は、歯の後ろに舌をつけ、そこに息をぶつけて出す音(歯茎破裂音)です。破裂音であるところから、硬さ・強さのイメージ(例:コツコツ、タフガイ、「トォ!」というヒーローが戦うときの掛け声等)があり、また激しく言うと唾が飛ぶからか、湿度・粘性を感じさせる(例:タラタラ、ベタベタ、たまご等)ところもあるそうです。さらに、発音するとき、破裂する前に上あごと舌との間の空間に息を充満させるため、中身が詰まった確かな感じ(例:タプタプ、たっぷり、とくと等)も持たせる音だと言われています。

「た」の母音「a」は、口を自然に開いて開放する音なので、明るさや自然さを感じさせる音だそうです。

「ゆ」の子音「y」が語中に表れた場合は、前の音を和らげる働きがあるそうです。例えば、隙間風や寝息の音を表現した「スースー」の調音部分を「y」を使った「ya」の音にしてみると、「すやすや」というやわらかい落ち着いた寝息の表現に変わります。

「ゆ」の母音、そして「たゆたう」の最後の音でもある「u」は、唇を縦も横も閉じ気味にして、口の中の中央に小さな空間を作る音であることから、「体の中にある」という感じを喚起するそうです。「あ」のように開放しないからか、「受け止める」というイメージも持たれる音だそうです。

こうして「たゆたう」を構成する音を並べて考えてみると、「湿度を感じるt、開放感のあるa、和らげるy、受け止めるu、湿度を感じるt、開放感のあるa、受け止めるu」ということになります。

(中)つづく

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第266回 音のイメージ4

前回、「たゆたう」という言葉を構成する音のイメージを一つずつ見ました。しかし、「湿度を感じるt、開放感のあるa、和らげるy、受け止めるu、湿度を感じるt、開放感のあるa、受け止めるu」とただ並べられても、いまひとつイメージがしにくいのではないでしょうか。

音のイメージは、単にそれぞれの子音と母音だけでなく、その並びからも生まれます。例えば、「たゆたう」の場合、母音の並びは「auau」です。何の邪魔もない形で口を開放する「a」と、口を狭める「u」が交互にきています。ここから、ゆったりしっぱなしではない、ゆらゆらとした不安定さを感じることができます。

このようにして見ると、「たゆたう」という言葉を初めて聞いたとき、「波に漂っている」というイメージを持った理由がわかります。

ちなみに、先ほど母音の並びについて触れましたが、人名や企業名においては、最後にどの母音で終わるかということが、人に与える印象という点で重要になるそうです。

私の名前から母音だけを取り出すと「ia」となります。「i」は意識対象にまっすぐに突き進む音で、「a」は逆にゆったりと開放する音です。対象にピンポイント突き進むようで、あっけらかんとした開放感がある…?何とも不思議な印象の名前です。私を知らない人が私の名前を見たときは、最後の音である「a」の印象を強くもたれるのでしょうか…?

(中)つづく

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第267回 音のイメージ5

音だけで聞いた人はある程度のイメージを持ってしまうということで、ビジネスにはネーミングが非常に重要です。

「音のイメージ 2」で少し触れた音相理論で分析すると、新幹線の「ひかり」と「のぞみ」はそれぞれ次のようなイメージが持たれる名称だそうです。

ひかり:「透明感・清潔感」のイメージが突出。その他、「パワー・権威」「創造性・チャレンジ」のイメージ。

のぞみ:「共感・繊細」のイメージが突出。その他、「自由・躍動感」「気品・高級感」のイメージ。

「Wikipedia」で調べてみると、「こだま」は音速、「ひかり」は光速をイメージしてつけた名前で、「のぞみ」については光速より速いものが立証されていなかったため、「望み(希望)」という抽象的なものになってしまったとのことです。「希望」とはしなかった理由は「国鉄の名前は歴代大和言葉を使った」という慣習に沿ったものだそうですが、「のぞみ」という言葉が持つイメージも影響していたのではないでしょうか。いかにも速そうで、力強い「ひかり」に対し、「のぞみ」は繊細さや自由さをアピールし、高級感をかもし出すことにより、1ランク上であることを印象付けたいのではないかと思われます。

以前も触れた「車の名前にはCがいい」「女性雑誌はNとMが売れる」のような業界の経験則も、単なる偶然ではないでしょう。例えば、女性のファッション雑誌に「セドリック」なんて名前が付いていても、おしゃれな服が載っているようには思えません(ボーイッシュな印象の服なら載っているかもしれませんが)し、「ノンノ」という名前の車を男性が選ぶとも思えませんよね。

つづく(中)

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第268回 音のイメージ6

親が子どもに名前をつけるとき、そこには親の願いが込められていることが多くありますが、意味だけではなく、名前の音の響きも大切にして名づけをする人もいます。

一方で、本当の名前がどうであれ、愛称やニックネームで呼ばれる人がいます。

身内を例に出しますと、私の甥は「まさあき」という名前ですが、最後が「き」(kは子音の中でも最も強い印象を与え、乾いた感じを与える音+iは対象にまっすぐ突き進む音)という強い音であるためか、周りの大人の呼び方は「まあちゃん」です。プロ野球の楽天イーグルスの田中将大投手も、監督をはじめマスコミからも「マー君」と呼ばれています。「m」の音の持つやわらかさ・丸さと、「a」の持つ開放感から、親しみやすい、可愛がられているような感じを出せるからでしょう。また、楽天つながりで言えば、監督は「ノムさん」と呼ばれています。野村監督の名前である「克也」は「k」と「t」という強い印象を与える音が二つも続いていますが、苗字から「ノム」だけを取れば「n」と「m」で丸み・包容力が感じられる名前になります。私の勝手なイメージですが、「カツさん」と呼ばれるよりも、選手を大事に育てているベテラン監督という感じが出ませんか。

企業名や商品名、人の愛称などを「音」という観点から見てみると、どのような印象を与えたいのか、あるいは受けているのかがわかります。皆さんも周りの物を分析してみませんか。 (中)

参考文献
『角川最新国語辞典』 角川書店
『怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか』黒川伊保子 新潮社
「日本語の音相」http://www.onsosystem.co.jp/
「Wikipedia のぞみ(列車)」

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第270回 龍馬とお龍の旅-地名の由来1

NHK大河ドラマでも話題の坂本龍馬。1866年、寺田屋事件で負傷した龍馬は、親交のあった薩摩藩(現在の鹿児島県)の西郷隆盛や小松帯刀らからの薦めで刀傷の治療のために鹿児島へ向かいます。鹿児島の他、近郊の霧島の温泉などに80数日逗留し、その間、霧島連山、日当山温泉、塩浸温泉、鹿児島などを巡っています。その際、妻であるお龍が同行していたことから日本初の新婚旅行と呼ばれるようになりました。西洋のハネムーンの習慣を聞かされた龍馬自身、ハネムーンになぞらえていたと言われています。

今回は、鹿児島出身である筆者が、龍馬とお龍が旅したルートの中からそのいくつかを御紹介し、地名の由来について取り上げますが、まずは手始めに「鹿児島」という地名の由来から。鹿児島と言うと、今では都道府県名となっていますが、古くは、中心にある活火山桜島のことを「鹿児島」と呼んでいたということです。その名の由来は、火山を意味する「カグ」という言葉からであるとか、野生の鹿(シカ)の子(児)が多く住む島だった(確かに、今でも霧島温泉辺りでは野生のシカが多く見られます)から、といった説があります。

(に)つづく

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第271回 龍馬とお龍の旅-地名の由来2

寺田屋事件の後、京都から薩摩(現在の鹿児島)に下向した龍馬とお龍は、薩摩藩の家老を務めた小松帯刀の屋敷などで1週間過ごした後、日当山(ひなたやま)を経由して霧島へ向かいます。1866年3月16日のことでした。霧島から薩摩に戻ったのが4月12日ですから、約1カ月霧島近辺の温泉巡りをしていたことになります。

霧島という地名は、文字通り霧が深い土地柄に由来しています。日本神話の中には、天照大神(アマテラスオオミカミ)の孫に当たる邇邇芸命(ニニギノミコト)が降臨したとされる高千穂峰が登場しますが、一面霧に満たされた中に高千穂峰がぽっかりと島のように浮かんで見えたことから霧島という名がついたと言われています。霧島は鹿児島空港から車で30分ほどという近さで、周辺には妙見温泉、安楽温泉、塩浸(しおひたし)温泉、硫黄谷温泉、栄之尾(えのお)温泉、林田温泉、新湯温泉、霧島神宮温泉などなど様々な温泉があります。高台の温泉宿に泊まって朝早く眼下の景色を見下ろせば、山々が一面霧に覆われた幻想的な光景が楽しめます。

(に)つづく

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第272回 龍馬とお龍の旅-地名の由来3

霧島での楽しみは何と言っても温泉です。数ある温泉の中で、龍馬とお龍が最も長く滞在したのが塩浸(しおひたし)温泉で、18日間滞在したという記録が残っています。鹿児島空港から車で10分、国道223号線沿い、天降川(あもりがわ)の支流のほとりにあり、霧島の温泉地の入口に位置する温泉です。

鹿児島には元々神話に由来する地名が多いのですが、この辺りは天孫降臨伝説の地だけあって、周辺の地名にはそれに由来するものが多く、天降川(あもりがわ)という川の名前も天照大神(アマテラスオオミカミ)の孫に当たる邇邇芸命(ニニギノミコト)が天降った(あまくだった)地に流れる川という意味です。この川には多くの支流があり、その一つ嘉例川(かれいがわ)のほとりに建つ嘉例川駅は大正ロマンを感じさせるレトロな駅舎が人気を呼んでおり、旅行番組でよく取り挙げられます。

塩浸温泉は、元々は「鶴の湯」と呼ばれていましたが、湯の色が茶色く岩に塩のような物がつくことからいつしか塩浸温泉と呼ばれるようになりました。元々切り傷に効能があり、龍馬とお龍が訪れた頃には温泉宿が軒を連ね繁盛していましたが、今は山あいを流れる川沿いにある静かな温泉です。龍馬とお龍の記念碑があり、そのすぐそばに、つい最近リニューアルオープンした日帰り入浴施設と資料館があります。ついつい見逃してしまいそうなのが、その建物の下の川のほとりにある小さな浴槽。2、3人入れるぐらいの本当に小さな石造りの浴槽ですが、実はこれ、龍馬とお龍が一緒に入ったものなのです。

(に)つづく

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第273回 龍馬とお龍の旅-地名の由来4

鹿児島空港から車でおよそ20分のところに犬飼滝という滝があります。幅22メートル、落差36メートル、なかなかの大滝です。滝の近くまでは遊歩道で600メートルほど。足場があまり良くないので、歩行には注意が必要ですが、ここは是非歩いてみたいもの。龍馬は姉の乙女に旅先から便りを送っていますが、間近で滝を見た龍馬には余程大きく見えたのか、「幅50間(約百メートル)」と形容し、「げに(本当に)、この世の外かと思われるほどのめずらしきところなり」と書き送っています。

この犬飼滝、どうして犬飼なのか定かではありません。因みに、この辺りは769年から770年にかけて律令官僚であった和気清麻呂公が配流されていた場所で、近くに和気神社があり、犬飼滝への遊歩道沿いに古めかしい露天風呂があって「和気湯」という札がついています。清麻呂公がこの辺りを散策して入浴したという言い伝えがあり、名前の由来となっていますが、犬飼滝という名称も清麻呂公と何かつながりがあるのかもしれません。この和気湯、龍馬もつかったそうで、龍馬ファンの人気スポットの一つです。元々個人宅のお風呂ですが、開放されていて自由に入れます。ただ、道端に唐突に出現する露天風呂で、脱衣場がなく、入るのはやや憚られます。それでも入ってみると何とも風情ある所です。ぬるめの湯につかって、龍馬と同じように山の景色を眺めながら思いにふけってみてはいかがでしょう?

(に)つづく

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第274回 龍馬とお龍の旅-地名の由来5

高千穂峰(たかちほのみね)は鹿児島県と宮崎県の県境にある山で、標高は1573メートル。この山、日本神話の中では天照大神(アマテラスオオミカミ)の孫に当たる邇邇芸命(ニニギノミコト)が降臨した「天孫降臨」の舞台として登場します。そして、ニニギノミコトが高いところから千の稲穂をまいてこの地に実りをもたらしたことから高千穂峰と呼ばれるようになったと言われています。その頂上には、ニニギノミコトが突き刺したという天の逆鉾(あまのさかほこ)が刺さっていますが、1866年3月29日、龍馬はお龍とこの山に登った折に、その逆鉾を引き抜いて面白がったというエピソードがあります。姉の乙女に書き送った書状には登山道の略図が描かれ、引き抜いた逆鉾に刻まれた図柄を見て、お龍とともに「天狗の面」だと大いに笑ったと書き記しています。この逆鉾、その後の火山噴火で折れてしまい、現存する逆鉾はレプリカですが、龍馬とお龍が引き抜いた逆鉾の先の部分は、今も地中に埋められています。筆者は子供のころに登った記憶しかありませんが、途中、溶岩むき出しの急な斜面や「馬の背越え」と呼ばれる火口壁上のルートなどあり、龍馬も恐がりながらもお龍の手を引いて登ったそうです。

高千穂峰の麓にはニニギノミコトを祀る霧島神宮があります。高千穂峰登山を終えた龍馬とお龍は、1715年に再建された現在の社殿を参拝し、神宮の別当寺華林寺に宿泊したと記録に残っています。

(に)つづく

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第275回 龍馬とお龍の旅-地名の由来6

高千穂峰登山を終え、霧島神宮に参拝した龍馬とお龍は、翌3月30日硫黄谷温泉に宿泊しています。文字通り温泉特有の硫黄の臭いが立ち込める谷にあり、現在は庭園大浴場を売り物にする温泉ホテルが宿泊客で賑わっています。ここのいいところは、4つの泉質が楽しめるということ。硫黄泉・明礬(みょうばん)泉・塩類泉・鉄泉の4種類で、それぞれ効能が違いますから、好みで泉質が選べます。硫黄谷温泉で2泊した龍馬とお龍は、4月1日、また塩浸温泉に戻り1週間滞在。その後2人は4月8日、日当山(ひなたやま)温泉に来ています。日当山という地名は真言宗のお寺の号に由来しています。今でこそ、鹿児島の温泉地といえば、霧島と、天障院篤姫の故郷としても知られる指宿(いぶすき=平安期に編纂された『和名類聚抄』には「以夫須岐(いふすき)」と記され、元々は湯が豊かな宿を意味する「湯豊宿(ゆほすき)」であった)が双璧のように言われていますが、日当山温泉は鹿児島県内最古のいで湯、歴史は神代に遡る由緒ある所。西郷隆盛が頻繁に足を運んだ温泉としても知られています。

3月16日に鹿児島から日当山に着いた龍馬とお龍は、3週間ちょっと霧島の温泉を巡り湯治をして刀傷を癒し、またこの日当山温泉に戻って来ました。そして、この地で3泊した後、浜之市港から船で鹿児島城下へ戻ったのでした。

龍馬が京都で暗殺されたのはそれから1年8カ月余り後のこと。お龍と共に霧島で愉快に過ごした1カ月余りは、龍馬にとって身の危険を感じることもなく、伸び伸びとしたものだったようです。皆さんもこの機会に、龍馬とお龍の足跡を辿ってみてはいかがでしょうか。そして、地名の由来についてもっと調べてみると面白い発見があるかもしれません。(に)

<参考文献>
・ ウィキペディア「坂本龍馬」「楢崎龍」「薩摩藩」「天降川」「和気清麻呂」「高千穂峰」「日当山温泉」http://ja.wikipedia.org/wiki/
・ 鹿児島県総合観光サイト
http://www3.pref.kagoshima.jp/kankou/blog/picup/2010/01/post_69.html
・ 鹿児島県霧島市ホームページhttp://www.city-kirishima.jp/
・ 京都国立博物館所蔵品データベースhttp://www.kyohaku.go.jp/cgi-bin/list.cgi?gazo_no=1&mz_synm=0000000488&limit_no=230
・ 高千穂峰http://www.kumaya.jp/atikoti40.html 
・ 霧島神宮http://www.kirishimajingu.or.jp/index.htm

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第269回 老人語1

「老人語」という言葉を聞いたことがありますか。

『新明解国語辞典』(三省堂)には、「すでに青少年の常用語彙の中には無いが、中年・高年の人ならば日常普通のものとして用いており、まだ死語・古語の扱いにはできない語。例、日に増し(=日増しに)・平(ヒラ)に・ゆきがた・よしなに・余人(ヨニン)など」とあります。

他の主だった辞書に「老人語」はなく、この辞書の初版(1972年)が発行された当初、「老人語」という命名や内容に異論・反論が出たようです。かつて多くの人々に使われてきた言葉の扱い方としては、身も蓋もない名称だなと私も思いますが、その後「老人語」は、この辞書の内容を踏まえながら、もう少し広い意味で使われてきています。ここではその名称はさておき、「老人語」の中身について見ていきましょう。

(た)つづく

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第276回 老人語2 -老人語あれこれ1-

「老人語」は、かつては一般的に使われていたけれど最近はあまり使われていない言葉であり、結果、主に老人に使われ、若者にはほとんど引き継がれていない言葉です。時とともに老年層の世代が変わりますから、「老人語」も固定しているのではなく、変わっていくことになります。

皆さん、どんな言葉が浮かびますか。思いつくままに挙げてみましょう。

「赤チン」「半ドン」「汽車」「接吻」「帳面」「さじ」「チョッキ」「アベック」「旗日(はたび)」「銭(ぜに)」「別嬪(べっぴん)」「コール天」「猿股(さるまた)」「衣紋掛け(えもんかけ)」など。

社会や生活文化の投影を感じますね。

「赤チン<赤いヨードチンキ>」「半ドン<オランダ語の“日曜日”の半分の意あるいは正午の大砲の音(ドン)=半日の休み=土曜日>」などは、その物や制度自体が姿を消しています。そのため引き継がれようがないのですが、赤くなくても消毒液を「赤チン」、半日出勤を「半ドン」という言い方がお年寄りの中に残っています。

「汽車」はどうでしょうか。蒸気機関車で動く「汽車」が姿を消し、電気で動く「電車」になって久しいですが、お年寄りが「電車」のことを「汽車」と言っているのを耳にしたことがありませんか。鉄道の上を走る生活の足として、その役割が大きく印象が強烈だったことを感じますね。

(た)つづく

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第277回 老人語3 -老人語あれこれ2-

「彼女と接吻をしているとき、お母さんが部屋に入ってきました。」

これは、日本語クラスで学習者が作った文を互いに発表しているとき、フランス人の青年が得意満面、してやったりの表情で発表した文です。使い込んだ辞書を引いていたと思ったら…、「接吻」が載っていたんですね。

「老人語」には、この「接吻→キス」のように、和語や漢語が外来語に入れかわって、使われなくなった言葉があります。「帳面→ノート」「さじ→スプーン」「前掛け→エプロン」「写真機→カメラ」など。まだまだありそうです。「ちり紙→ティッシュ」「耳飾り→イヤリング」「衣紋掛け→ハンガー」もそうですね。

また、「チョッキ→ベスト」「バンド→ベルト」「アベック→カップル」のように、外来語から外来語に入れかわったものや、外来語になるばかりでなく「旗日→祝日」「銭→お金」「別嬪(べっぴん)→美人」「舶来物→輸入物」「シャッポ→帽子」「若いし→若い人」「パーマ屋→美容院」「コール天→コーデュロイ」のようなものもあります。いろいろな世代が集まって、思いつくままに出し合うと話が盛り上がりそうです。

(た)つづく

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第278回 老人語4 -世代間ギャップ-

「猿股(さるまた)」を知っていますか。男性のパンツのことですね。これはさすがに私も使ったことはありませんが、わが家では父(大正10年生まれ)が使っては母(昭和3年生まれ)を苦笑させていました。この父と母のやり取りには時代的裏付けがあるようです。

米川明彦氏(梅花女子大学教授)は、「国民生活白書」(内閣府)の世代分類をもとに、言葉の世代間ギャップを指摘しています。生まれた年が1925(大正14)年以前の世代(父の世代)は家父長制の中で育ち戦前教育を受けていて、それ以降の世代(母の世代)と意識や行動にかなり差がみられるため、言葉にもギャップがあるのだそうです。

また、その1925(大正14)年以前生まれの人たちは高齢になっていますから、ちょうど今まさにその「老人語」の世代ということになります。

思い起こすと、父は「猿股」だけでなく「手ぬぐい」「別嬪(べっぴん)」などの言葉を、苦笑されながらも母には使い、私たち子供には「パンツ」「タオル」「きれいな人」と、相手によって使い分けていたようです。私の世代はそれでも聞けば理解できますが、父の孫たちの世代である20代には、聞いても意味が伝わらない言葉になってしまいました。

(た)つづく

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第279回 老人語5-長く使われてきたということ-

「腰掛け」は、わかりますね。イスです。この「腰掛け」、室町時代から使われている言葉で、結婚までの「腰掛け」に就職する、などという比喩表現も江戸時代から使われているのだそうです。そう考えると、「腰掛け」が愛おしくなってきます。

「前掛け」も同様に室町時代から。また、前出の「接吻」は清時代の中国語が日本に伝わったものだそうです。なんと…。

「老人語」は、やがて失われていく言葉で、決して今風でないのは確かですが、言葉が生まれた時代の社会や文化を色濃く反映し、広く長く(時には500年を超えて)受け継がれてきたことを知ると、感動すら覚えます。「老人語」に対する、古臭い、時代遅れで価値のない言葉というイメージが吹き飛びませんか。

今や若い世代にすっかり定着してきた「ら」抜き言葉(「食べれる」「見れる」「起きれる」)に抵抗を感じる私たちも、やがては老人になり、「ら」入り言葉(「食べられる」「見られる」「起きられる」)が「老人語」ということになるのでしょう。言葉のサイクルはダイナミックです。(た)

<参考資料>
・「日本語教育講座2 音声・語彙意味」千駄ヶ谷日本語教育研究所
・「新明解国語辞典(第六版)」三省堂
・「新『ことば』シリーズ10言葉に関する問答集」文化庁
・「女子大生からみた老人語辞典」米川明彦編 文理閣
・「若者言葉に耳をすませば」山口仲美著 講談社

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第280回 着物にまつわる慣用句1

「彼の証言には辻褄(つじつま)が合わない点が多くある」などのように、物事の道理や筋道を「辻褄」と言います。さて、この「辻褄」というのはどのようにして生まれた言葉なのでしょうか。

辞書等で調べてみたところ、「辻」も「褄」も着物(和服)にまつわる言葉のようです。「辻」というのは裁縫用語で縫い目が十文字に合うところ、「褄」は着物など長着の裾の左右両端の部分とのこと。確かに、「辻」も「褄」も正確に縫わないと、いいかげんな着物になってしまいそうですね。

このシリーズでは、このような着物にまつわる慣用句、ことわざについて考えてみましょう。

(み)つづく

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第281回 着物にまつわる慣用句2

中途半端で役に立たないことを「帯に短し襷(たすき)に長し」と言います。これも着物にまつわる慣用句です。

ここで言う襷は駅伝選手や選挙候補者が斜めにかけているものではなく、着物の袖やたもとが邪魔にならないように、背中でバッテンになるように両肩を通して結ぶひものことです。現代では見かける機会も少ないかと思いますが、時代劇でおかみさんなどが家事をしているシーン、忠臣蔵の討ち入りのシーン等で目にしたことのある方も多いのではないでしょうか。

ところで、この「帯にするには短く、襷にするには長い」長さですが、具体的にはどのぐらいの長さを言うのでしょうか。(み)つづく

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第282回 着物にまつわる慣用句3

「帯に短し襷(たすき)に長し」と言いますが、「帯にするには短く、襷にするには長い」長さとは、具体的にどのぐらいの長さを言うのでしょうか。

さっそく、自宅のたんすから帯を出して長さを測ってみました。結果、浴衣用の半幅帯で約3.8m、訪問着などに合わせる袋帯で約4.3mでした。結構長いものですね。対する襷はというと、あいにく手持ちのものが無かったため通販のサイトで調べてみたところ、短いもので2.4m、長いもので2.9mのものが見つかりました。

ということは、大体3mから3.5mぐらいのものが「帯にするには短く、襷にするには長い」長さということになるのではないでしょうか(時代や細かい用途によって長さは多少違ったかもしれませんが)。

何にせよ、「中途半端だ」ということを帯と襷で例えるなんて、それだけ生活に結びついた、実感のこもった表現だったんでしょうね。(み)つづく

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第283回 着物にまつわる慣用句4

今回は「袖振り合うも多生の縁」です。意味は、広辞苑(第四版)によると「道行く知らぬ人と袖が触れ合うことさえ宿縁による。すなわち、ちょっとした出来事も宿世の因縁によるという意」とあります。

さて、このことわざを見て、自分が覚えているものと少し違うと感じた方はいらっしゃいませんか。例えば、「振り合う」じゃなくて「摺り合う」では?「多生」じゃなくて「他生」、「多少」では?など…。

よくある勘違いが「多少の縁」です。「多かれ少なかれ縁がある」という意味になりますが、これは誤りだそうです(かく言う私も子供の頃そう思い込んでいました)。正しくは「多生」または「他生」と書き、何度も生を変えてこの世に生まれ出ること(多生)、この世から見て過去および未来の生(他生)ということを意味するそうです。

また、「振り合う」というとお互いに袖を高く振って合図を送り合っているような情景が思い浮かびますが、必ずしもそうではなく、触れ合うことも意味するそうです。「摺り合う」は音が似ているので出てきた言い方ではないでしょうか。(み)つづく

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第284回 着物にまつわる慣用句5

「袖振り合うも多生の縁」はよく耳にすることわざですが、「多生」の正しい意味を知って使っている人は実のところそれほど多くないのでは、と感じます。では、なぜそのような難しい言葉を含むことわざがこれほど広く使われてきたのでしょうか。理由を考えてみましょう。

一つには、このことわざの意味である「ちょっとした出来事も何かの縁があってのことだ」という考え方を日本人が大切にしてきたからではないでしょうか。「これも何かの縁だから」「不思議なご縁ですね」など、現代でも「縁」という言葉はよく使われていると思います。

もう一つには、「道で知らない人と袖が触れ合う」という日常の情景が非常に共感を持てるものだったからではないでしょうか。現代でもすれ違う時に袖と袖が触れ合うことはあると思いますが、着物(和服)を日常着としていた時代は、袖には通常たもとが付いていたため面積が広かったこと、また道幅が今より狭かったことなどを考えるに、「袖振り合う」機会が現代より多かったのではと想像されます。

現代では洋服に主役の座を奪われてしまった感のある着物ですが、着物にまつわる慣用句、ことわざはこの他にも数多くあります。着物もそれにまつわる言葉も、先人から受け継いだ私たちの財産として大切にしていきたいものです。(み)

<参考>
・『広辞苑 第四版』岩波書店
・着物から生まれた言葉 

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第285回 うなずき1

街角で二人の女性が向かい合って立っています。二人の距離はおよそ40センチ、かなりの近さです。二人は無表情で微動だにしませんが、一人は口だけ動かして何か話しています。さて、この二人は何をしているのでしょうか……。答えは、単なるおしゃべりです。これは、私がドイツ・ミュンヘンで見かけた光景です。この二人の女性はいがみ合っているわけでもなく、ただ立ち話をしていたのです。

もし、これが東京の街角での日本人同士の話だったら、皆さんはどう感じますか。二人の女性から何かただならぬ雰囲気を感じるのではないでしょうか。日本人同士がおしゃべりをしている場合、「微動だにしない」というのはよくあることではありません。普通は、動き、特に首を前に倒すうなずきを伴います。多くは意識的にうなずくというより、無意識にうなずいています。また、声を出さずにうなずくばかりでなく、「ええ」「うん」「はい」などあいづちの言葉も発することが多いでしょう。

では、私が見かけたミュンヘンの女性たちは、特別おかしかったのでしょうか。

(こ)つづく 

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第286回 うなずき2

ドイツ・ミュンヘンに15年以上住んでいる日本語教師の友人に聞いてみたところ、ドイツ人がうなずく時というのは、「あなたの言うことはよくわかりました」「私もあなたの意見に同意します」という時だけなのだそうです。それ以外の場合は、頭を動かさずに黙って相手の話を聞くのが普通だということでした。それを聞いて、ドイツ以外の国の人たちのことを考えてみたのですが、CNNやBBCのニュース番組でインタビューなどのシーンが流れると、聞き手の側がうなずくのはまれにであって、ほとんどの場合はじっと聞いているだけです。

一方、日本人同士が話している場合は、うなずいたりあいづちを打ったりするのは頻繁に行われます。つまり、ほかの国の人たちは理解や同意を表すのにうなずきやあいづちを用いますが、日本人の場合はもっと別の意味でも用いていると考えられます。例えば、「あのね」「(うなずき)」「昨日ね」「(うなずき)」「デパートに行ってね」「(うなずき)」。このようなうなずきは「あなたの話を聞いていますよ」というサインです。また、「それからどうしたの?」といった話の続きを促す意味もあるでしょう。

ほかに、うなずきやあいづちにはどのような意味があるでしょうか。

(こ)つづく 

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第287回 うなずき3

日本人がうなずいたりあいづちを打ったりするのは、了解や同意を表す時ばかりでなく、話し手の話を聞いている、話の続きを促しているという場合がありますが、相手に敬意を表すという働きもあるようです。また、内容の切れ目や話し手が間を置いた時に限らず、相手の話にかぶせて行う点が、ほかの国の人たちとは大きく違うと言われています。このようなことから、日本人のうなずきやあいづちの現れる場面は、ほかの国の人たちよりも多いと考えられます。

数年前まで、海外を旅しているアジア人と言えば、多くが日本人でした。その後、韓国人が増え、今は圧倒的に中国人です。私は夫と二人でよく旅行するのですが、最近の旅行でも、中国人観光客の数の多さを実感してきました。団体だとどこの国の人なのかわかりやすいのですが、判断するのに微妙なのが2~4人の小グループの場合です。でも、それもしばらく様子を観察していると、少なくとも日本人かそうでないかはわかります。話している相手に対してうなずきの回数が多いかどうかが判断の根拠です。ある調査によると、中国人とアメリカ人と日本人を比較した場合、日本人のうなずきの頻度は突出しているそうです。

(こ)つづく

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第288回 うなずき4

日本人はどうしてうなずきやあいづちを多用するのでしょうか。例えば二人の日本人が話している時、話し手→聞き手→話し手→……といったキャッチボールのような役割分担があるのではなく、聞き手も話し手といっしょになって話を作り上げているのだという説があります。これを水谷信子先生は「共話」と呼びました。

よく、電話なのに、見えない話し相手に向かってうなずいたりお辞儀をしたりしている日本人を揶揄する言葉が他国の人から聞かれることがありますが、こういう行動が生じるのも「共話」の言語だからこそなのではないでしょうか。また、多くの国で、公共の交通機関内での携帯電話での通話が認められているのに、日本では認められていないというのも、「共話」が関係しているという考えがあります。日本語母語話者は、聞き手だからといってただ聞いているのではなく話を作り上げる役割も担っているため、誰かが携帯で話していると、車内の全く無関係な人たちも会話に参加させられているような気持ちになり、他人の会話が耳に入るのを極端に嫌うのではないか、と言うのです。確かに、「携帯電話の電源をお切りいただくか……」というアナウンスが流れるのは日本だけで、公共マナーにうるさいイメージのあるドイツでさえ、車内での携帯電話での通話は全く自由に行われています。

(こ)つづく 

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第289回 うなずき5

日本語を学ぶ外国人のクラスでは、敢えてうなずきやあいづちの練習をすることがあります。どんなに日本語が文法的に正しく話せても、態度が日本語を母語とする人のものとかけ離れていると、日本語母語話者にとっては違和感のもとになるからです。私たちにとっては難なくできるうなずきやあいづちも、それらに慣れていない人たちにとっては、すぐにできるものではありません。「話し手は一気にしゃべろうとしないで、『ね』『よ』といった助詞を交えてちょっと間を取りながら話す」、「聞き手は話し手の言葉が途切れたら「はい」「ええ」「そうですか」などのあいづちを打ってうなずく」、のように説明し、練習に入ります。「あのですね」「ええ(うなずき)」「きのうですね」「ええ(うなずき)」「デパートに行ったんですよ」「そうですか(うなずき)」といった練習をすることになるのですが、文字にするとまどろっこしく感じられるものを、日本人は自然にやっているのです。

このように、うなずきやあいづちには文化による違いがあります。うなずきやあいづちを多用する私たちはこれらを大切にするとともに、多くの外国人にとってなかなか難しいものであることも理解できるといいですね。そうすれば、「この人、なんで私の顔をじっと見て話を聞いてるんだろ。怒ってるのかしら」といった誤解も起こりにくくなるからです。皆さんも機会があったら、外国の人たちが会話している様子を観察してみてください。 (こ)

<参考文献>
・『心を伝える日本語講座』水谷信子 研究社 1999
・「日本語におけるあいづち研究の概観及びその展望」陳 姿菁『言語文化と日本語教育2002年5月特集号』
・「ポライトネス・ストラテジーとしての聞き手のうなずき」宮崎幸江『上智短大紀要29号』2009

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第290回 おっさま、ささって、おんさる?1

皆さんは、「おっさま、ささって、おんさる?」と聞いて、どんな場面を思い浮かべますか?この言葉、私の生まれ育った岐阜県の方言なんですが、標準語に訳すと「和尚様(お坊さん)、しあさって、いらっしゃる?」という意味になります。

標準語では、きょう・あした・あさって(二日後)・しあさって(三日後)、と言うのを、岐阜では、きょう・あした・あさって(二日後)・ささって(三日後)・しあさって(四日後)、と言うのです。

「きょう」の二日後である「あさって(明後日)」は、語源辞典によると、「あす去りて→あすさて→あさて→あさって」と変化した言葉だそうです。明日という一日が去ってまた新しい日がやってくる・・・、素敵な言い方ですね。

さて、岐阜の方言「ささって(三日後)」についてですが、「再来週」は「さ・らいしゅう」、「再来年」は「さ・らいねん」と読みますね。岐阜では「きょう」の三日後を「さ・あさって(再・明後日)」と表現し、それが短く「ささって」となったと考えられています。「しあさって」を三日後と思っている人と、四日後と思っている人が待ち合わせの約束をしたら・・・、大変なことになりそうですね。

さて、「おんさる」ですが、これは「いらっしゃる」、つまり「いる」「行く」「来る」などの尊敬語です。

この「いらっしゃる」に当たる岐阜の言葉をご紹介していきたいと思います。

(イ)つづく

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第291回 おっさま、ささって、おんさる?2

「いらっしゃる」の岐阜弁である「おんさる」は、「おる」に「さる」が付いた言葉です。この「さる」は、「行きんさる(行くの尊敬語)」「食べんさる(食べるの尊敬語)」「見んさる(見るの尊敬語)」「書きんさる(書くの尊敬語)」「しんさる(するの尊敬語)」のように使われ、標準語で言うところの、「する」の尊敬語の「なさる」に当たります。

標準語において、「おる」は元々は「いる」の謙譲語ですが、「先生がおられます」のように「おる」に尊敬語を表す「られる」を付けて、尊敬語として使うこともありますね。

日本語学習者に敬語を教えるときに、この謙譲語を使った尊敬語「おられます」をどのタイミングでどのように紹介すればいいのか、悩むことがあります。

以前に『日本語の美しさ』で扱った「ら抜きことば」(バックナンバー参照)もそうですが、文法的に正しいとは言えないけれど、実際にはよく使われ、耳にする言葉をどう学習者に伝えていくのか、教師として、正確さと自然さをバランスよく伝えていくことが大切だと実感します。

(イ)つづく

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第292回 おっさま、ささって、おんさる?3

「いらっしゃる」の岐阜弁には、「おんさる」のほかに、「みえる」という言葉もあります。これは、岐阜以外の地域でも「いらっしゃる」と同じ意味で使われることも多いので、理解しやすいと思います。ただ、その場合、例えば、「和尚様、あさって、みえる?」(おっさま、ささって、みえる?)のように単独で使われることが多いのではないでしょうか。

岐阜では、「みえる」は補助動詞としても使われます。

例えば、「ねえさまはかみんさに行ってみえるわ」(お義姉さん(※岐阜では長男の嫁を指します)は美容院に行っていらっしゃいます)、「しげさ、でーれー、怒ってみえたわ」(しげるさんはとても怒っていらっしゃった)のように、動詞の「て形」につきます。

岐阜から上京したばかりのころ、大学の友達の家に電話をして、友達のお母さんに、「○○さん、今日はどちらに行ってみえますか」と尋ねたところ、聞き返されあたふたしたことを思い出します。

似ている言葉でも、意味や用法が100%同じではないというのは、方言だけでなく、外国語にも言えることですね。

(イ)つづく

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第293回 おっさま、ささって、おんさる?4

前回、方言と標準語を比べて、似ている言葉でも意味や用法が100%同じとは限らないというお話をしましたが、これは外国語にも言えることです。

お隣の韓国の言葉と日本語は文法的にも語彙的にもよく似ていますが、それが却って、誤った使い方を引き起こすこともあります。

例えば、助詞の例を見てみましょう。

「ビールを飲みます」「テレビを見ます」「日本語を勉強します」の助詞「を」に当たる助詞が韓国語にもあります。「ウル/ルル」という助詞です。

また、「図書館に行きます」「ここにあります」といった「に」に当たる助詞「エ」もあります。

ここまで見ると、日本語の助詞と韓国語の助詞は同じようなルールで使い分けられるように思ってしまいますが、そうはいきません。

例えば「友達に会います」「旅行に行きます」「バスに乗ります」といった文を韓国語にしようとした場合、前述のルールで考えると、「に」に当たる「エ」を使えばいいということになります。

しかし、実際には、韓国語では、「エ」ではなく、「ウル/ルル」を使います。

ですので、よく韓国人学習者は、「友達を会います」「旅行を行きます」「バスを乗ります」といった間違った文を作ってしまうのです。

似ているからこその誤解に気をつけなければいけませんね。

(イ)つづく

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第294回 おっさま、ささって、おんさる?5

「いらっしゃる」の岐阜弁には、「おんさる」「みえる」のほかに、「ござる」という言葉もあります。

三つを比較してみた場合、どちらかというと、「ござる」が一番気軽に使用されているように思います。言い方を換えると、ほかの二つに比べて、距離が近く感じられます。

「みえる」の元々の意味の「見える」という言葉には、「遠くに見える」といった距離感があるのに対し、「ござる」は漢字で「御座る」と書くように、近くに座っているというニュアンスを受けるからかもしれません。

その証拠といえるかどうかわかりませんが、「ござる」には面白い使い方があります。例えば、赤ちゃんが笑っているのを見て、「ああ、あのぼぼ(赤ん坊)、嬉しそうに笑ってござるわ」と言ったりします。

これは赤ちゃんに対して敬意を表しているというより、親しみや愛情を込めて「ござる」を使っているのだと思います。岐阜に帰ったときにこの言葉を耳にすると、何だか心がほんわか温かくなります。

(イ)つづく 

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第295回 おっさま、ささって、おんさる?6

これまでご紹介してきた「いらっしゃる」の岐阜弁である「みえる」「ござる」には、実はもっと敬意を高めた言い方があります。

「みえんさる」「ござらっせる」です。

「おっさま、もう、みえんさったわ(和尚様はもういらっしゃいました)」「おっさま、ささって、ござらっせるの?(和尚様はあさっていらっしゃるの?)」といった使い方をします。

どちらも、尊敬語に、更に尊敬語を作る「さる(せる)」をつけた、いわゆる二重敬語と呼ばれるものです。

「いる(来る・行く)」の尊敬語である「みえる」「ござる」ですが、皆がよく使うことで耳にするのが当たり前になってくると、尊敬語であるという意識が薄れてきます。そのため、更に「さる(せる)」を付けて敬意を強調しているわけです。

標準語でも、「召し上がられる(召し上がる+られる)」「お召し上がりになる(召し上がる+お~になる)」「おっしゃられる(おっしゃる+られる)」といった、尊敬語を二つ重ねた二重敬語をよく耳にしますね。

日本語学習者にこの二重敬語をどのタイミングでどう説明するのかも悩むところです。全ての尊敬語が二重敬語になるわけではありませんので、やはり例外的な使い方として紹介するのがいいかと思いますが、皆さんはどう考えますか

日本語教師養成講座で敬語を扱うと、受講生からいろいろな敬語が出てきます。

人それぞれ、それまで使いなれてきた敬語があり、それが人と異なることも多いからです。

生まれた場所、育った環境(家族)、勤めていた会社、それぞれにそこで自然とされ適切とされる「敬語」が存在します。

敬語に限ったことではありませんが、言葉を扱う仕事をしている者として、何が正しい、どれが正しい、だけではなく、「語感」を大切にしていきたいと感じています

(イ) 

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第296回 方言が持つ独特な表現1

突然ですが、みなさんは、「あのお菓子は、おいしかりよった。」と言われたら、どんな意味かわかりますか。「おいしかりよった。」、あまり耳慣れない言葉だと思います。しかし、これは実際に地方出身の私の両親から発せられた方言です。「た」がついているので、過去のことを表しているようですが、ただの「おいしかった。」ではありません。「かりよった。」の部分に特別な意味が込められているのです。「おいしかりよった。」だけではわからないかもしれませんので、もう少しヒントを。「子供の頃よく食べたあのお菓子は、おいしかりよった。」。どうでしょうか。意味が推測できるでしょうか。今回は方言が持つ独特な表現を取り上げたいと思います。答えを発表するのはもう少し後にして、次回はこの言葉が出てきた背景を取り上げます。

(田)つづく

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第297回 方言が持つ独特な表現2

私の両親は父母とも広島県の北東部、岡山県にほど近い、昔の国名で言えば「備後」という地方の出身です。上京してからすでに40年以上経ち、人生の大半を東京で過ごしていますが、いまだに家庭内の会話は、ほぼ100%、その地方で話されている「備後弁」で行われています。東京の友達や仕事関係の人と話すときは、もちろん標準語を使いこなすことができますが、家に入るやいなや、備後弁に切り替わります(このように、場面や状況によって言葉を切り替えることを、「コードスイッチング」と呼びます。)。あまりに徹底した備後弁に、東京で育った私も自然と備後弁を操れるようになったほどです。両親は、東京ももちろん愛していますが、やはり郷土愛というのは強いようです。ことあるごとに、広島で過ごした少年少女時代を振り返ります。そして「子供のころよく食べたあのお菓子は、おいしかりよったのう。」と言います。さて、「おいしかりよった。」という言葉の背景を少し語りました。ここであらためてこの言葉の意味を考えると、ぼんやりとですが、語られている何かが見えてはこないでしょうか。次回は解答編です。

(田)つづく

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第298回 方言が持つ独特な表現3

前回までは「おいしかりよった。」という広島県北東部の方言、「備後弁」の意味を推測していました。今回はその解答編です。この「おいしかりよった」、標準語と備後弁のバイリンガルである私は、両親がこの言葉を発すると、そのニュアンスが体のすみずみまで伝わってきますが、いざ標準語で説明しようとしても難しいものです。それでもあえて標準語に意訳すれば、「子供のころよく食べたあのお菓子は、おいしかったものだなあ。」となります。子どもの頃によく食べた駄菓子屋の味を思い出しては、「ああ、あれはおいしかった。懐かしいなあ。」という感慨を込めて、この言葉を発していると考えられます。ちなみに「~かりよった」というこの方言は、「おいしい」にだけつくのではありません。「おいしい」は品詞でわけると「形容詞」ですが、「さびしい」「うれしい」など、他の形容詞にも使えます。たとえば、「子供のころ、お母さんが、お兄ちゃんばかりをかわいがったので、さびしかりよった。」「お母さんが、よくドーナッツを作ってくれたけど、あれはうれしかりよったわ。」などです。これらすべてに昔への感慨が込められています。なかなかいい表現だと思いませんか。ニュアンスが伝わったところで、次回は、この「かりよった」という言葉を文法的に説明してみたいと思います。

(田)つづく 

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第299回 方言が持つ独特な表現4

さて過去3回、「おいしかりよった。」という広島県北東部の方言「備後弁」の意味や背景について書きましたが、今回は少し文法的な説明をしたいと思います。まずは「おいしかりよった」の「おいしかり」の部分です。みなさんは古文を勉強したとき、形容詞の活用で、「ク活用」「シク活用」というのがあったのを覚えていますか。「よし」という形容詞を活用させると、「よから」「よかり」「よし」「よかる」「よけれ」「よかれ」など様々な形に変化します。否定の表現である「ず」を「よし」につける場合は、「未然形」と接続します。「よし」の未然形は「よから」なので、「よし」を否定したい場合は「よからず」となるわけです。現代語の「よくない」とはだいぶかけ離れていますね。話は飛びましたが、この古語の活用が備後弁には残っており、前の部分は「おいしい」の連用形、「おいしかり」と活用したようです。次回は「おいしかりよった」の「よった」の部分を取り上げます。

(田)つづく 

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第300回 方言が持つ独特な表現5

さて、前回は備後弁の「おいしかりよった」の「おいしかり」の部分を文法的に説明しましたが、今回は「よった」の部分を説明します。「よった」のもともとの形は「よる」です。この表現は関東の人にはなじみのない表現かもしれませんが、関西方面ではよく使われる表現です。「よる」は標準語でいうところの「~している」という意味です。「今、何をしているの。」「喫茶店でお茶を飲んでいるよ。」という標準語は、備後弁では、「今、何しょうるん?」「喫茶店でお茶をのみょうるよ。」となります。「よ」が小さくなっていますが、これは発音上の現象で、「しよる」「のみよる」というのが元の形です。「よった」は「よる」の過去形で、「よった」は「~していた」という意味があります。つまり、「おいしかりよった」は「おいしい」に「~していた」がついたものと言えます。標準語で無理やりつなごうとすれば、「おいしかっていた(?)」となりますが、形容詞に「~していた」がつくなんて、なんだか不思議ですね。次回は「おいしかっていた」とはどんなことなのかを分析してみます。

(田)つづく 

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第301回 方言が持つ独特な表現6

「~していた」というのを日本語の教科書で見ると、様々な使われ方があります。たとえば、「動作の完了」を表したいとき。「私が帰ったときには、彼はもう昼食を食べていた。(すでに食べ終わった状態だった)」などがそれにあたります。また「過去の時点での動作の継続」を表すときにも同様に使うことができます。「昨日の12時ごろ、彼は昼ご飯を食べていた。(そのとき、その動作を継続している状態だった)」などがその用法です。そのほかにも「彼はよく病院へ通っていた。(何回も繰り返し行われた)」という「過去の習慣」を表す用法もあります。ひとくちに「~ていた」といっても、使うシーンは様々です。さて、前回、備後弁の「おいしかりよった。」は標準語にしようとすると、「おいしかっていた。」となることがわかりましたが、では「おいしかりよった」の「よった」はニュアンスから察するに今回紹介したどの用法に当てはまるでしょうか。

(田)つづく

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第302回 方言が持つ独特な表現7

さて、前回備後弁の「おいしかりよった。」の「~よった」の用法について書きました。もう一度まとめると、主な用法は(1)動作の完了(2)動作の継続(3)過去の習慣でしたね。「おいしかりよった」の「よった」はこの3つの用法のどれにあてはまるでしょうか。

では、ここで、もう一度「おいしかりよった」のニュアンスを思い出してみましょう。この言葉は「ああ、おいしかったものだなあ。」という感慨を表すものでした。このような感慨というのは、過去に何回も繰り返して体験してきたものを思い出すときに起こる感情です。つまり「おいしい」という味の体験を過去、習慣的に行っていたので、「おいしい」が何度も起こった→「おいしかりよった」になるというわけです。上記の(1)~(3)の用法でいえば、(3)に当てはまります。子供の頃は両親が話す備後弁が恥ずかしかったもの(恥ずかしかりよった?)ですが、今回、「おいしかりよった」を考えるにあたり、表現の豊かな方言であると気がつきました。みなさんも機会があれば、ぜひご自身の身近な方言を振り返ってみてください。きっとその奥深さ、面白さに気がつくと思います。(田)

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