トップページ > コラム・ミニ知識 > 日本語の美しさ > 第303回 「子」のつく名前1
突然ですが、皆さんは初めて「小野妹子」や「蘇我馬子」といった名前を見聞きしたとき、女性の名前かと思いませんでしたか。小学生だった私もそうでした。なぜでしょう?そう、名前の最後に「子」が付くからですね。
この「~子」という名前、今では女性の名前に用いられることがほとんどですが、もともとは男性に使われていました。中国の古い思想家、老子、孔子、孟子にも「子」が付きますが、それらの「子」は「先生」という意味の尊称だそうです。それらの使い方が日本にも入って来て、身分の高い男性に対して使われるようになったようです。冒頭の小野妹子、蘇我馬子の他、聖徳太子などもその使い方の一つでしょう。
では、女性の名前に「子」が広く使われるようになったのはいつ頃からなのでしょうか。
(み)つづく
「~子」という名前は、もともとは身分の高い男性に尊称として付けられていたそうです。
女性の名前に「~子」が広く使われるようになったのは、正確にいつ頃からかはわかりませんが、男性と同じく、もともとは天皇や貴族の娘など上流階級の名前として使われていたようです。平安時代、紫式部、清少納言が仕えていた一条天皇の中宮、彰子、定子も「子」の付く名前です。今でも天皇家の女性の名前は「~子」ですよね。
かたや一般庶民の女性の名前に「~子」が広く使われるようになったのは明治時代後期になってからだそうです。それまで「~子」は上流階級の女性の名前に使われていたため、高貴で上品なイメージが好まれ、あこがれを込めて付けられたのかもしれませんね。
次回は「~子」という名前の人気の移り変わりについて見てみましょう。
(み)つづく
「~子」という名前の人気の移り変わりを見てみましょう。
明治安田生命の生まれ年別名前の資料を見てみると、明治45年(大正元年)の女性の名前トップ3は千代、ハル、ハナで10位までに「子」の付く名前は正子、文子、千代子、静子の四つがランクインしています。
それ以降、「~子」の名前の人気はぐんぐん増え、大正10年(1921年)から昭和31年(1956年)までは1位から10位の全てを「~子」という名前が占める時代が続きます。36年間とは長いですね!
その後は「明美」や「真由美」など「~美」という名前や、「香織」「美穂」など「~子」でも「~美」でもない名前が増え、昭和55年(1980年)以降はずっと「~子」という名前は10位以内の名前の半数にも届かなくなってしまいます。
ちなみに、現時点での最新データ、平成21年(2009年)の欄を見ると、「~子」という名前は10位以内には一つもなく、100位まで範囲を拡げてやっと55位の「莉子」、81位での「璃子」のわずか二つが見つけられるのみです。
時代の流れなので仕方ない気もしますが、「~子」という名前を持つ身としては少し寂しい感じもします。
(み)つづく
明治時代以降、上流階級の女性の名前から庶民にも拡がった「~子」という名前。当初は高貴で上品なイメージが好まれたのでしょうが、あまりに多くなると普通すぎて無味乾燥な印象が強くなってしまったのか、だんだんと減ってきているようです。
最近では、音の響きがきれいな名前や海外でも通用しやすい名前、他の人とは違うオリジナリティのある名前などが人気のようです。前出の明治安田生命の生まれ年別名前ランキグでも、平成21年(2009年)生まれの女の子の名前は1位以降、「陽菜」「美羽」「美咲」「美桜」「結愛」などが並んでいます。確かに、私の身の回りで最近生まれた女の子の名前を思い出してみても、「~子」という名前は思い当たりません。
「~子」という名前は今では人気がなくなってしまいましたが、その名前が本来持っていた、その人を敬う意味や上品なイメージを考えるとなかなかいい名前だと思います。今後、そのような点が見直され、再び「~子」という名前が人気になることがあるのでしょうか。興味深く見守りたいと思います。(み)
<参考>
・奥富 敬之『日本人の名前の歴史』1999,新人物往来社
・佐藤 稔『読みにくい名前はなぜ増えたか』2007,吉川弘文館
・名前ランキング 明治安田生命
・人名 Wikipedia
・日本の女性名はなぜ流行りすたりが激しいか?
・ことばをめぐるひとりごと その15 減少する「子名前」
-方言・共通語・標準語-
最近は方言ブームだと言われます。方言で話すことを売りにしたテレビタレントやお笑い芸人が数多く活躍しています。また、テレビドラマでも全国の視聴者にわかるように薄められてはいますが、ドラマの魅力の要素として方言を使っています。
我が家でも最近、お土産のパッケージに書かれた方言を見て、娘が「熊本に転校した友達もこの前会ったら『~だけん』てよく言ってた。なんか温かいよね」と話していました。東京で生まれ育った娘は、方言から伝わる意味だけではない情感を感じているようです。
こうした限られた地域で使われる「方言」に対して、地域に制約されないことばを皆さんは「標準語」と言いますか。「共通語」と言いますか。この2つは区別せずに使われることもありますが、厳密にはその定義も成立過程も異なるようです。日本語の「共通語」と「標準語」についてみていきましょう。
(た)つづく
※方言についてはこの「日本語の美しさ」のページでも「篤姫のふるさとの言葉(第202~208回)」鹿児島方言/「ふるさとのことば(第213~216回)」米子方言(鳥取県)で取り上げています。
-方言・共通語・標準語-
「共通語」と「標準語」の違いについて、みてみましょう。
「共通語」は、複数言語間における「共通語」という使い方(世界の共通語“英語”、国際共通語“エスペラント語”)もしますが、日本語の場合は方言間の「共通語」(異なる方言の人に伝わるように話す言葉)という使い方をしています。『標準語と方言』(文化庁)の中で国語学者柴田武氏は『国語学辞典』(昭和30)を引用して「共通語」は「一国のどこででも、共通に意思を交換することの出来る言語」であり、「標準語」は「共通語を洗練し一定の基準で統制した、理想的な言語」と書いています。
ん~、具体的にはどういうことでしょう。
「共通語」は現実のコミュニケーションの手段であり自然発生的なのに対して、「標準語」はその言語の価値を高めるための理想であり人工的なものだとあります。
“自然発生的”“人工的”という辺りに鍵がありそうです。次回は、それぞれの成立過程をみていきましょう。
(た)つづく
-標準語の成立過程-
日本での「標準語」と「共通語」の成立過程をみていきましょう。
政治の中心である東京には、江戸時代から参勤交代などで全国各地から多くの人が出入りしました。異なる地域の人が互いの「方言」でコミュニケーションするには、意思疎通を図る上で何かと不便だったのでしょう。武家や文化人など中流の教養層が住む山手ことばが全国で通じることばとして「共通語」化していったということです。新しい時代を主導した薩摩や長州のことば(薩摩ことばを真似たり、学んだりする人もいたそうですが)ではなく、江戸の生活・文化の繁栄を支えた人たちが使う下町ことばでもなく、特定の臭いの少ない山手ことばが「共通語」化したのは、時代の急激な流れやパワーバランスが背景にあるようです。ここまでは自然発生的なことばなので、この時期の「共通語」と言えるでしょう。
その「共通語」化した東京の山手ことばを土台にして、国が定めたのが「標準語」です。1902年(明治35)、国語調査委員会が文部省に設置され「方言を調査して標準語を選定する」とし、1904年(明治37)には全国の小学校で使われる国定教科書がスタートします。自然発生的にできた東京の山手ことばだけではなく、地方語のよいものや文語も考慮に入れたという話があります。理想を求め、人工的であるが故に「標準語」なんですね。その一例として、親族名称「おかあさん」が有名です。東京で一般的に使われていた「おっかさん」ではなく、西日本の一部で使われていた(どこの地域にもない新しい言葉だったと書いている人もいます)「おかあさん」が採用され、現在は広く定着しています。
当時、小学校就学率の全国平均が94.4%だったそうですから、国定の教科書に使われた「標準語」は読み・書きの言葉として全国に浸透するのに大きな成果があったといわれています。影響の大きさが想像できますね。
(た)つづく
-共通語の成立過程-
「標準語」は東京の山手ことばを土台に、国が定めたものです。日清戦争後、国家統制策の中で「標準語」を正しい、美しいとする考え方が、「方言」を排除する方言撲滅運動を生み、太平洋戦争が終わるまで続きます。戦後も、「方言」を恥ずかしいものと思う方言コンプレックスは、長く残っていました。また一方で、文化的にも歴史の長い関西語を「標準語」に加えるべきとする民族学者梅棹忠夫氏の「第二標準語論」なども出たようです。
一方「共通語」は、実体としては明治初期に東京山手ことばが「共通語」化していたものの、公にこの用語が使われたのは、時代が下り戦後になってからです。1949年(昭和24)に国立国語研究所が福島の調査地域で“純粋な方言”と“標準語ではないが標準語に近いもの”を使い分けている状況をみて、「方言」ではなく「標準語」でもないものとして使った用語です。その土地の「方言」を理解できない人たちとの会話や、あらたまった場で使われているのが「共通語」ということになります。私も高校生のときに、道を尋ねてきた男の人たちに東京の雰囲気(?)を感じて、高松弁ではなくちょっと「標準語」らしい言葉「共通語」(表現は東京の言葉でも、イントネーションは怪しい)で緊張気味に答えていたのを思い出します。こういうことはよくありますね。
また、この「共通語」という用語は、「標準語」との内実の違いよりも「標準語」という用語のもつ統制の臭いに対する拒絶反応を背景に、一般に特に国語教育の場で急速に広がったと言われています。単に用語の言い換えとしても使われたので、区別がつきにくいんですね。
『標準語と方言』(文化庁1977)では「現在では、方言に対する国語教育の考え方は、共通語の存在意義と方言のもつよさを理解した上で、共通語が必要に応じて使いこなせることを中心にしている」と述べられていて、「標準語」という用語が出てきません。最近、NHKのテレビ番組でも「共通語」という言い方をしていました。
(た)つづく
-日本語教育の現場で-
「標準語」は定められたものですが、「共通語」は現に通用している言葉というわけです。どちらも地域を越えて通じる言葉ですから、「共通語」の体系は「標準語」とあまり変わらないとも言えますし、更に「共通語」に体系はない(例えば、東京の人の話す「共通語」と、関西の人の話す「共通語」とはアクセントの違いや文末の母音の強さの違いがあっても通じればよい)とも言われます。規範の幅が広いんですね。
では、外国人にはどのような日本語を教えればいいのでしょうか。
例えば、大学などへの進学やビジネスのための日本語を教える日本語学校など専門の教育機関では、やはり「共通語」の中でも「標準語」を意識した日本語教育が必要でしょう。スピーチやプレゼンテーション、レポートや報告書などで求められる言葉です。
一方、地域の日本語教室などで生活会話を中心としたコミュニケーションとしての日本語を学ぶ人たちには、地域の風土や生活文化に合う「方言」や、生活場面でのあらたまった場や書き言葉として使う「共通語」が必要でしょう。
少子高齢化・労働人口の減少対策や海外への企業進出を背景として、またサブカルチャー(アニメや漫画など)をきっかけに、日本語を学ぶ外国人はもっと増えてくると思われます。
言葉は生まれ、移動し、消失し、また新たに生まれるダイナミズムをもっています。世代間で起きる変化(「ら抜きことば」や高低アクセントの変化「平板化」など)だけでなく、日本で生活する外国人に影響を受けて起きる変化もあるはずです。正しい日本語を一方的に教えるより、むしろ互いの文化や考え方を相互にやり取りする中で、言葉が変化したり、新しい日本語が生まれたりする自然発生的な「共通語」の展開が楽しみです。
(た)
<参考資料>
・「日本語教育講座3 言語学・日本事情」千駄ヶ谷日本語教育研究所2003
・「「ことば」シリーズ6 標準語と方言」文化庁1977
・「標準語 ことばの小径」田中章夫著 誠文堂新光社1991
・「江戸語・東京語・標準語」水原明人著 講談社現代新書1994
・「標準語の成立事情」真田信治著 PHP研究所1987
・「方言は気持ちを伝える」真田信治著 岩波ジュニア新書2007
・「変わる方言 動く標準語」井上史雄著 ちくま新書2007
・「どうなる日本のことば 方言と共通語のゆくえ」佐藤和之・米田正人編著 大修館書店1999
Yahooで“This is a pen”を検索にかけてみると、荒井注(あらい・ちゅう)がトップに出てきます。これはドリフターズの初期のメンバーである荒井注の代表的なギャグだったからです(志村けんは荒井注が脱退後に正式メンバーとなります)。では、どのような場面でこのギャグが出てきたかというと、英語を話すシーンのコントです。そこに荒井注が出てきてどんな場面でも“This is a pen.”の一言で済ませるのです。例えば、国際会議のコントで議論は英語が用いられています。日本の代表として荒井注が出席しており、他国の参加者から“Japan.”と言われ発言を求められます。そこで荒井注はゆっくりと立ち上がり、落ち着いた様子で“This is a pen.”と述べるのです。
この“This is a pen.”は、荒井注のおかげで、英語を習う前の小学生にも定着しました。
当時の小学生は、外国人を見かけると、「あそこに“This is a pen”がいるぞ。」と言ったり、外国人に向かって“This is a pen.”と声をかけたりしていたほどです。でも、それを聞いた、当時の外国人は果たしてどのように思ったことか・・・。
では、なぜ英語を話すシーンのコントで“This is a pen.”が出てきたのか。これは、初めて英語を学ぶときに、最初に教科書に出てくる有名なフレーズであり、英語と言えば、“This is a pen.”だったからでしょう。
実はこの“This is a pen.”には、言語教育の世界での一つの立場が表れているのです。それは、文法(文型)を簡単なものから難しいものへと段階的に教えていこうという立場です。ですから、英語でなくても他の言語の教育においても、この立場に立てばどの教科書も似たようなタイプになるわけです。もちろん日本語教育の教科書にも“This is a pen.”タイプのものがあります。ただ、「ペン」よりも「本」が一般的であり、「これは本です」が代表的フレーズです。
今回は、この「これは本です」というフレーズについて、日本語の教育と文法の面から数回にわたり述べてみたいと思います。(吉)
「これは本です」で始まる日本語の教科書の例を示します。原文はローマ字ですが、ここでは漢字仮名混じり文で表記します。
(以下“NAGANUMA’ S BASIC JAPANES COURSE ”長沼直兄 昭和59年重版 日本出版貿易株式会社 の第1課 本文より)
これは本です。
これは紙です。
これは鉛筆です。
これはいすですか。
はい、そうです。
これもいすですか。
はいそうです。
それもいすですか。
いいえ、そうじゃありません。
では、それは何ですか。
机です。
あれは何ですか。
戸です。
では、あれは戸ですか、窓ですか。
窓です。
でも、「これは本です」は、日常の言語生活でいつ使うのかを考えてみると、あまり使う機会はないようです。また、「これはいすですか。はい、そうです。」などという分かりきった事実を聞く問答は、確かに実用的ではありません。
ただ、ここには理由があるのです。その理由を説明する前に、教師がどのように授業の展開をするのかを述べます。まず、教師は、実物、ジェスチャーなどを使って文の意味を学習者にわからせます。次に、何回も何回も教師が文を発音し、学習者に日本語の音を聞かせます。そして、十分聞かせてから学習者に発話させるのです。ここで意味の理解が難しい文だったら、学習者は発音を十分に聞くよりも意味の理解にエネルギーを使います。つまり、分かりきった事実だから、学習者は意味の理解よりも日本語の音を身につけるのにエネルギーが使える、というのがその理由なのです。さらに、教科書で提示される文の順番を見てみると、基本的な文法(文型)を段階的に学べるようにもなっているのです。
私が中学校で英語を習ったときは、これと同じようなタイプの教科書でした。でも、文法と日本語へ訳が主で、英語の音を身につける練習はほとんどしませんでした。日英の同じタイプの教科書でも使い方が違っていますね。日本語の教科書のように英語も勉強していたならば、英語の発音やリスニングの苦労は少なかったのだろうと思います。
【参考文献】「入門期の教授法-文型をいかに積み上げるか-」浅野鶴子
『日本語教授法の諸問題』日本語教育指導参考書3 文化庁 昭和47年7月31日 初版発行(吉)
前回は「これは本です」で始まる日本語の教科書を紹介しました。この教科書(“NAGANUMA’ S BASIC JAPANES COURSE ”)は初版が昭和33年(1958年)です。これを次の教科書と比較してみましょう。この教科書は平成11年(1999年)に出版されたものです。
(以下、『コミュニケーション日本語1』千駄ヶ谷日本語教育研究所より。本文の漢字にはルビがついているがここでは省略)
2課 これは何ですか。
●会話
店員 :いらっしゃいませ。
ジョン:これは何ですか。
店員 :しょうが焼きです。
ジョン:しょうが焼き?
店員 :ぶた肉です。
ジョン:ああ、豚肉ですか。あれは何ですか。
店員 :親子丼です。とり肉とたまごです。
(以下 略)
3課 これは吉田さんのペンです
●会話
エレン:すみません。これは林さんのペンですか。
林 :いいえ、私のじゃありません。
(以下 略)
どうでしょうか。「これは本です」タイプの文も、2課では「わからない物を尋ねる」、3課では「(人)の」という表現を加えて「所有者を尋ねる」、というように実際に使う場面がわかる会話の中で提示されています。ちなみに、この教科書の1課のタイトルは「はじめまして」で自己紹介を取り上げています。新しい教科書は、実用を重視した本文が掲載されている点で前回の教科書とは違いますね。授業は、実物、写真、絵、ジェスチャなどを用い、文の意味をわからせた後、発音の練習もしっかり行います。この点は、教科書が変わっても変わりません。
二つの日本語の教科書を比較しましたが、教科書は、どのように学んだら/教えたら使えるようになるのか、学ぶ/教える価値をどこに置くのかなどの教授法の考えが表れています。それは時代とともに変わっていきます。
さて、今の中学校の英語の教科書ですが、かなり実用的になっています。“This is a pen.”の世代が見るときっと驚くでしょう。荒井注の“This is a pen.”は、語学教育の一時代を反映したギャクだったというわけです。
(吉)
今回から「これは本です」を文法的な面から見ていきます。まずは、「これ」を取り上げます。
では、「これ」はどのようなときに使うことばでしょうか。
このシリーズの②③で日本語教科書の本文を紹介しましたが、そこには「これ」のほかに、「それ・あれ」が取り上げられています。これに「どれ」が加わり、語形の似たことばのグループ(「これ・それ・あれ・どれ」)を作っています。違いはことばの頭に付く「こ・そ・あ・ど」ですが、ことばの頭に「こ・そ・あ・ど」が付き、形の似たもののグループは他にもあり、以下のように整理することがきます(以下の例は主なもの)。
コ
ソ
ア
ド
これ
それ
あれ
どれ
ここ
そこ
あそこ
どこ
こちら(こっち)
そちら(そっち)
あちら(あっち)
どちら(どっち)
「これ」の用法を考える場合、「これ」を単独で考えるのではなく、このような全体(こそあど言葉といいます)の中で使い方を考えていくとわかりやすくなります。
では、ことばの頭に「こ・そ・あ・ど」の付くことばの特徴は何でしょうか。これらのことばは一般に「指示代名詞」という分類名称がついています。また、「この・その・あの・どの」、「こんな・そんな・あんな・どんな」なども含めて「指示詞」と呼ぶこともあります。いずれにしても「指示」の名のとおり「指し示す」という働きを持つことがその特徴です。
次に「これ」系列、「ここ」系列、「こちら(こっち)」系列の違いは何のためにあるのでしょうか。これは指し示される対象によって使い分けがなされます。「これ」系列は「事物」、「ここ」系列は「場所」、「こちら(こっち)」系列は「方向」を指し示すのが基本的な用法です。「これ/ここ/こっちに座ってて。」では、それぞれ意味が違ってきませんか。「これ」だと椅子などのもの、「ここ」だと場所、「こっち」だと方向という意味合いが感じ取れると思います。
つまり、「これは本です。」の「これ」は、指し示された対象が「事物」(ここでは「もの」)だということを示しているのです。
次回は「こ」系列、「そ」系列、「あ」系列の使い分けについて述べます。
(吉)
前回は指し示される対象によって、以下のように「これ」系列、「ここ」系列、「こちら(こっち)」系列が使い分けられるという話をしました。
ソ
ソ
ア
ド
事物
これ
それ
あれ
どれ
場所
ここ
そこ
あそこ
どこ
方向
こちら(こっち)
そちら(そっち)
あちら(あっち)
どちら(どっち)
今回は「こ」系列、「そ」系列、「あ」系列の使い分けについて述べます。次の例文を見てください。(*指示詞の用法には、文章・談話の中に出てきたものを指し示す用法もありますが、ここでは、指し示す対象が話している現場にある場合について取り上げます。)
(1)A:これは何ですか。
B:あ、これ? これは本ですよ。
(2)A:それは何ですか。
B:あ、これ? これは本ですよ。
(1)は「これ」に対して「これ」、(2)「それ」に対して「これ」が用いられていますが、(1)と(2)では用法が違います。
(1)はAとBが並んで一緒におり、私たち(AB)の近くにあるものを指して「これ」言います。「それ」と「あれ」ですが、「これ」の位置から少し離れたものを指して「それ」、遠く離れたものを指して「あれ」と言います。
(2)はAとBが向かい合っている場合です。私とあなたが相対し、それぞれ空間を二分しています。そして私の近くにあるものを「これ」、あなたの近くにあるものを「それ」と言います。
指し示す対象がものではなく、場所であれば「ここ」系列、方向であれば「こちら(こっち)」系列を用いればよく、「こ・そ・あ」の付くことばは、距離によって、あるいは、私とあなたの領域によって使い分けられるという点は同じです。
「どれ」は、(1)でも(2)でも指し示す対象が決まっていない場合に用います。
“This a pen.”の“this”は、英語の指示代名詞です。“this”は「これ・この」に当たりますが、「それ・あれ・その・あの」は“that(指示代名詞)”が担当しています。日本語では空間を三つ区切りますが、英語では二つに区切ります。外国語を学ぶときの難しさの一つは、このような区切り方の違いにあります。ただ、一方でこの違いは、物事の新たな捉え方との出会いですから、外国語を学ぶ楽しさでもあるでしょう。
(吉)
ことばの教育では、文から型を抽出し、文型(パターン)として学ばせるという方法があります。「これは本です」の文型は「N1はN2です」(Nは名詞)です。
この文型で用いられている「N1は」の「は」ですが、「が」とどう違うのかという質問が日本語学習者からよくあります。では、「は」と「が」はどう違うのでしょうか。
実は、この違いを説明することはなかなか難しく、日本語教育では「は」と「が」だけで一冊の学習用の本があるくらいです。今回は「N1はN2です」と「N1がN2です」を比較することで、「は」と「が」の違いの一面を見てみましょう。
(1)これは本です。
(2)これが本です。
まず(1)(2)が答えになる疑問文をそれぞれ考えてみます。疑問文は次のようになるでしょう。
(1′)それ(これ)は何ですか。
(2′)本はどれですか。/どれが本ですか。
疑問文においては、「何」「どれ」に該当する情報が聞きたい情報です。その聞きたい情報が(1)(2)のどこに来ているかを見てみると、下線部の部分です。
(1)これは本です。
(2)これは本です。
ですから、(1′)(2′)の答えは、それぞれ、「本」、「これ」と言っただけでも成り立ちます。つまり、(1)は「N1はN2(伝えたい重要な情報)です」となっており、「これ」に該当するのは、「ペン」でも「鉛筆」でも「机」でも「ノート」でもなく「本」だと言っているのです。(2)は「N1(伝えたい重要な情報)がN2です」となっており、「本」に該当するのは、「それ」でも「あれ」でもなく「これ」だと言っているのです。
(1′)(2′)の疑問文における「何」「どれ」などの疑問詞の位置も違っています。「Nは疑問詞ですか」、「疑問詞がNですか」となっています。疑問文における疑問詞の位置の違いも、伝えたい重要な情報は何なのかという点から理解できると思います。
このように「は」と「が」が違うだけで、文の意味もずいぶん違ってくるのです。(吉)
【参 考】(以下は、日本語学習者のための自習用の本です。)
『は と が』日本語文法セルフマスターシリーズ1 野田尚史 くろしお出版
「これは本です」の文型は「N1はN2です」(Nは名詞)です。この文型には、「うなぎ文」と呼ばれる次のような文があり、日本語においてよく用いられています。
(『日本語新版(下)』金田一春彦著 岩波新書 より)
ぼくはウナギだ。
食堂に入る。「何を召し上がりますか」と言われたときの言葉であるが、考えてみれば、 おかしい。ウナギのようにひげを生やした人が言うわけではない。
(中略)
・・・日本語では、長い語句の中心にある名詞をとりだしてそれで全語句を代表させる ことがあるのだ。
つまり、「ぼくはウナギだ」は、「ぼくはウナギを食べる」を短く言ったものであり、「ウナギを食べる」という語句の中心にある名詞「ウナギ」をとりだして、「ウナギを食べる」という全語句を代表させているというわけです。この文は『「ボクハ ウナギダ』の文法』(奥津敬一郎 著 くろしお出版)という本でも論じられ、「うなぎ文」という言い方が定着するようになりました。
ただ、この言い方は、文脈がないとどのような意味なのか(どのような語句を代表しているのか)がわかりません。
①ぼくは女です。(「子供は、男、女どっちがほしい?」「ぼくは女です(ぼくは女[の子供]]がほしいです)。」 )
②ぼくは沖縄だ。(「夏休みはどこへ行くの?」「ぼくは沖縄です(ぼくは沖縄へ行きます)。」)
「ぼくは女です」「ぼくは沖縄です」などといきなり言われたら驚くだけです。( )に示した問いかけがないとこれらの文の意味は理解できません。
でも、文脈から分かるのであれば、省エネでとても便利な言い方ですね。『「ボクハ ウナギダ』の文法』の著者で、私の恩師でもある奥津敬一郎先生によると英語、韓国語、中国語にも「うなぎ文」は存在するとのことです。それぞれの言語で「うなぎ文」を見つけ、その言語でどの程度用いられているのか、観察してみるとおもしろいと思います。
「『もしドラ』? 何それ。『ドラえもん』の何か?」
妻との会話で初めて「もしドラ」が話題になったとき、私は「もしドラ」の意味が分かりませんでした。そこで、「もしドラ」を調べてみると、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』(岩崎夏海 著)の略で、ドラは「ドラえもん」ではなく、マネジメントの父と呼ばれる「ドラッカー」であることが分かりました。息子が子供の頃、一緒に見ていたアニメの「ドラえもん」では、「ドラえもん」のことを「ドラちゃん」と呼んでいましたから、「もしドラ」の「ドラ」は、てっきり「ドラえもん」だと思っていました。略された言葉は難しいとつくづく思いました。
『もしドラ』という語は、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』からできたものです。ことばの研究においては、新しい語を作り出すことを「造語」、その方法を「造語法」と言います。そして、語などの一部が省略されて語の形が短くなることを「縮約」といい、「縮約」という方法によってできた語を「略語(略語形)」といいます。 略語は意味を知っていれば、とても便利です。「『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』、読んだ?」というよりも「『もしドラ』、読んだ?」というほうがとても楽です。
でも、知らなければ、「ドラ」は、「ドラえもん」、「ドラ焼き」、「昼ドラ」などの「ドラマ」、それとも麻雀の「ドラ」なのかと、クイズのようになってしまいます。ですから、略語が使われる条件は、そのもとの語などがよく知られていて、よく使われるものであることです。そうでないと、コミュニケーションに支障を来たしてしまいます。もちろん、よく知られていてよく使われているのが、広く一般的にというのではなく、“若者の間で”あるいは“業界で”などと限定的であってもかまいません。
「もしドラ」のもとは、語ではなく『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』という、語より大きな単位である句です。このように句をもととする表現には、「やぶへび」、「棚ぼた」、「泥縄」があります。これはことわざの略語です。
「やぶへび」:藪をつついて蛇を出す
「棚ぼた」 :棚からぼたもち
「泥縄」 :泥棒を捕らえて縄をなう
これらの略語は、かなり一般化しており、日常の会話でも問題なく使える表現です。
前回(「これは本です」の言語教育小論⑦)で取り上げた「うなぎ文」も省エネ(省エネルギー)ですが、今回の「略語」も省エネですね。「うなぎ文」は文を作る上での省エネ、「もしドラ」は語を作る上での省エネです。
今回は語を作る上での省エネ(「略語」)について取り上げます。略語については、このシリーズである「日本語の美しさ」の第105回~第109回で既に取り上げましたが、「もしドラ」がアニメになり映画になり、この略語が一般化するなかで、日本語においてよく行われる「略語」について再度取り上げてみたいと思います。第105回~第109回もあわせてお読みください。
(吉)
前回取り上げた「もしドラ」、「やぶへび」、「たなぼた(棚ぼた)」、「どろなわ(泥縄)」は、すべて4つの音(4拍)でできています。略語はこのように4つの音(4拍)でできているものが、最も多いと言われています。しかも、意味の面から構造を考えてみると、「2音(2拍)+2音(2拍)=4音(4拍)」になっているものがとても多いのです。以下ではそのような略語の例をみていきましょう。
これらはかなり一般化しているものです。略語を使うほうがむしろ普通ですね。
カラオケ:空(から)オーケストラ
だんトツ(断トツ):断然トップ
コンビニ:コンビニエンスストア
リモコン:リモートコントロール
エンスト:エンジンストップ
うなどん(鰻丼):うなぎどんぶり
てんどん(天丼):てんぷらどんぶり
だいそつ(大卒):大学卒業
大学生との会話でよく聞く略語には、
がくさい(学祭):学園祭
がくしょく(学食):学生食堂
しゅうかつ(就活):就職活動
があります。大学生と会話の機会がなければ、途惑う表現かもしれません。
「メリクリ」「あけおめ」「ことよろ」「メリクリ」は、携帯電話のメールで広まっていった略語です。
メリクリ:メーリークリスマス
あけおめ:あけましておめでとう(ございます)
ことよろ:今年もよろしく(お願いします)
携帯(携帯電話)では、パソコン(パーソナルコンピュータ)よりも文字を打つのに時間がかかりますから、このような略語の挨拶はとても便利です。ただし、誰に対してでも使える表現ではありませんね。
(吉)
NHK EテレのN響アワーを見ていたら、クラシック音楽の曲名に「メンコン」「ドボコン」のような略語が使われていると紹介していました。これはいわゆる「業界用語」です。これも4つの音(4拍)の略語です。
でも、その前に「NHK」も「Eテレ」も「N響」も略語です。
NHK:日本放送協会のローマ字「Nippon-Hoso-Kyokai」の頭文字によるもの。これまでの例ようの元のことば(ここでは「日本放送協会」)を略したものではなく、音の共通点はない。「エヌエイチケー(7音[7拍])」。
Eテレ:“Educational Television”の略。「イーテレ(4音[4拍])」。
N響 :NHK交響楽団の略。「エヌきょう(4音[4拍])」。
「N響」のNは「NHK」の「N」ですが、「NHK」自体も略語です。つまり、略語のもとの ことばも略語です。
さて、クラシック音楽の曲名の略語には次のようなものがあります。
メンコン:メンデルスゾーン バイオリン協奏曲 [協奏曲=コンチェルト]
ドボコン:ドボルザーク チェロ協奏曲
ブラ1 :ブラームス 交響曲第1番(以下、○○1、○○2・・・と続きます。)
チャイ1:チャイコフスキー 交響曲第1番
ベト1 :ベートーベン 交響曲第1番
「ベト7(ベトしち)」(ベートーベン 交響曲第7番)は、クラシック音楽を題材とした漫画 『のだめカンタービレ』のテレビドラマのオープニングに使用され、またドラマの中でも演奏されたので有名になりました。ちなみに「のだめ」は主人公「野田恵(のだ・めぐみ)」のあだ名ですが、これも「のだ」と「めぐみ」の「め」が組み合わさった略語(3音[3拍])なのでしょう。
日本語では略語が多く使われており、私たちは略語だと意識せず、普通に使っている場合があります。日本語を学ぶ外国人からは「略語は難しい」という声をよく聞きます。また、日本人とのコミュニケーションにおいても「メンコン」などの用語は業界外の人には理解が難しいものです。略語は省エネで便利なのですが、話す相手によっては、気をつけて使わなければなりません。
さて、次のBの文はどうでしょうか。
A:最近何を読みました?
B:ぼくは「もしドラ」です。
「うなぎ文」と「略語」でできた超省エネ型の表現ですね。日常の言語生活の中で、 省エネ型の表現を探してみてください。
(吉)
先日、家内とあるオーケストラの演奏会を聞きに行ったときのことです。開演前にロビーで家内とコーヒーを飲んでいると、音楽大学に通う息子がお世話になっている先生がいました。そこで、日ごろ息子がお世話になっているお礼をしようと思い、家内とその先生のところへ行きました。
私たち:○○先生、○○音大でお世話になっている○○ですが。
先生:あ、○○君の。
私たち:息子がいつもお世話になりまして、ありがとうございます。
先生:○○君、頑張っていますよ。成績も優秀で。
私たち:いや、とんでもない。基礎がまだまだしっかりしていませんし。
挨拶が終わると、以前日本語教師をしていた家内が「ずいぶん日本的な会話をしちゃったね。」と笑いながら言いました。「成績も優秀で」と持ち上げられれば、「いや、とんでもない」と否定をする。日本人同士の会話を振り返ってみると、自分や身内にかかわるものごとについて否定し、へりくだることがよくあります。
もしも先の会話で私たちが「いや、とんでもない。」と言うかわりに、「そうですか。私たちにとっても自慢の息子で。」などと言ったら、おそらく先生はその表現に違和感を覚えると思います。それは日本語では自分や身内あるいはそれにかかわるものごとをほめられたら、普通はそれを否定し、へりくだるという謙遜の文化があるからです。
[注]:先生の発話にある「成績も優秀で。」は、親の立場からすると事実に反する発話内容であること申し上げておきます。
(吉)
ある日本語教師養成講座のクラスで女性の受講生に「旦那さん/彼、やさしくて、すてきだね。」とほめられたらどうするかと聞いてみました。すると、「とんでもない。」とか「知らないだけですよ。」などと否定的な表現で答えるという人がほとんどでした。
私の家内も他の人に対して否定的な表現を使って私を落とすだけ落とします。「家じゃ、何もしない/自分勝手だ/ぜんぜんやさしくない・・・」などと、傍で聞いていると、半分当たっているけど、そこまで言わなくてもいいじゃないかと思います。
日本語には「愚妻、愚息、愚兄、愚弟、愚妹」など身内をへりくだって表現することばがあります。それにしても「愚~」とはかなりのへりくだりようです。ちなみに、先ほどのクラスの受講生に「うちの愚妻です。」と他の人に紹介されたらどうするかと尋ねてみました。すると、回答者の全員が旦那様を「絶対に許さない」などという厳しい反応を示しました。日本には謙遜の文化があるとわかっていても、実際にへりくだりの表現で言われる身になってみれば、おもしろくないと感じる人も多いと思います。
一方、国によっては“身内を他の人に自慢することが普通”の文化があります。そのような文化の人が日本人と身内の話をすると会話がかみあわなくなることがあります。ある外国人が自分の弟を「自慢の弟」だと日本人に話したところ、話し相手の日本人は途惑った表情をして、会話が進まなかったと言っていました。
(吉)
他の人に物をあげる時、「つまらないものですが」という表現を用いることがありますが、これも謙遜表現です。この表現について私の友人のアメリカ人は、どうしてつまらないものなんかを人にあげるのかと言っていました。
ある時、そのアメリカ人が青森に旅行に行ったと言って、お土産をくれました。そのお土産は、東北方言が書かれている手ぬぐいでした。私が日本語教師をしているので、ことばに関連のあるお土産を選んだのでしょう。そして、次のように言い、私にお土産をくれました。
「これ、すごいでしょ。とてもいいものです。○○さんのために買ってきました。」
(*○○さん=筆者)
贈られる物は同じであっても「つまらないもの」となるか「とてもいいもの」となるかは、文化によって異なります。
金田一春彦氏は日本人の贈答について次のように述べています。
(日本人は)「これをあなたにあげたなら、あなたはお返ししなければならないと思うだろう」と思うのである。それをやわらげるためには、他人に物を贈る場合に日本人らしいあいさつが生まれる。(『日本語 新版 上』金田一春彦 岩波新書)
この日本人らしいあいさつが「つまらないものですが」という表現です。つまり、これは物をあげる相手への気遣いを表わしているのです。
でも、「つまらないもの」でも「とてもいいもの」でも、相手のことを思う表現であることには変わりがありません。
(吉)
「何もございませんが、召し上がってください。」という表現は、文字通り解釈すると、非論理的な表現です。何もなければ食べることはできません。でも、テーブルの上には大変なご馳走が並んでいます。このような表現に途惑ってしまう外国人もいます。前回登場したアメリカ人は、何もないならレストランへ行けばいいと言っています。
この表現の意味については次のような説明があります。
文字どおり「(食べ物が)何もない」わけではなくて、「(あなたにとってごちそうといえるようなものは)何もない」という意味です。
(『異文化理解のための日本語教育Q&A』文化庁文化部国語課)
つまり、「何もない」は別のことばで言えば、「ご馳走ではないから気を遣わないで」という、話し手の、聞き手に対する気遣いの表現です。ご馳走することで相手に負担がかかるだろうから、それをやわらげようとする働きがあります。前回の「つまらないものですが」と同様の発想です。
ただ、最近は「つまらないものですが」よりも「○○さんがお好きだと聞きまして」や「○○の名産でとてもおいしかったので」など肯定的な表現を使って贈り物をするとも多くなってきました。また、「英語、お上手ですね。」などと褒められれば、素直に「ありがとうございます」と感謝する人も増えてきているようです。今後、謙遜表現も少なくなっていくのかもしれません。
(吉)
相手が謙遜表現を使った場合、どのように答えているでしょうか。例えば、次のように言われたとします。どのように答えますか。
①(お客を家に招きいれる時に)狭いところですが。
②(お客に食事をすすめる時に)何もございませんが。
③(お客が帰る時に)何もおかまいできませんで。
もしも何も言わなかったなら、それを肯定するようで何となく気まずい感じがします。以前、私の家を訪ねてきた人に「ちらかっていますが。」と言ったら、「雑然としていますね。」と返されたことがありました。私の謙遜表現をその訪問者は肯定したのです。正直言っていい気分ではありませんでした。その人が帰った後で、家族でそのことが話題になり、家族みんなが「ちらかっているのは確かだけれど、そんなふうに言うことはないだろう」というような不満の気持ちをその訪問者に持ちました。
では、①②③に対してどのように答えるか。例えば、①には「いや、私の家に比べれば、とても広いですよ。」、②には「おいしそうなものばかりで。」、③には「いえいえ、いろいろご馳走になりまして。」などと答えると、相手の気分を害すことはないでしょう。
相手の謙遜表現に対して、こちらは「いえいえ」などと否定し、さらに相手に対する褒めことばで答えます。また、「謙遜の文化①」で見たように、自分の息子を「成績が優秀で」と褒められれば、こちらは「いえいえ」などと否定し、さらに謙遜表現を加えて答えます。つまり、相手が自分を下げたらこちらがそれを否定し相手を上げる、相手がこちらを上げたらそれを否定しこちらを下げる、という会話のパターンがあるのです。
外国人に日本語を教えていると、このシリーズでも見てきたように、このパターンから外れる会話によく出会います。そんな会話に数多く接していると、日本人とこのパターンで会話をした時に、ふと本拠地に戻ってきたような気がするのです。
(吉)
次の会話は、父と母とその子供二人(姉と弟)の会話です。
子供(弟):「ねえ、お母さん、北海道に行ったことある?」
母:「お姉ちゃんが生まれる前によくお父さんと旅行したわ。ねえ、お父さん。」
父:「そうだったなあ。お母さん、北海道が好きだったからね。」
母:「だって、食べ物もおいしいし、景色はきれいだし・・・」
子供(姉):「いいな。私も行きたいな。」
子供(弟):「ねえねえ、今度の夏休みに北海道へ行こうよ。お姉ちゃんは休み、取れるよね。」
子供(姉):「大丈夫。別に予定がないから。」
この会話に出てくる、下線部の「お姉ちゃん、お父さん、お母さんは誰ですか。」という質問が日本語学習者からありました。妻が、自分の父親ではなく夫を「お父さん」、夫が、自分の母親ではなく妻を「お母さん」、母親が、自分の姉ではなく娘を「お姉ちゃん」と呼んでいます。ですから、それぞれが誰を指しているのか日本語学習者がわからなくなるのもしかたないと思います。
鈴木孝夫氏は『ことばと文化』(岩波新書)の中でこのような人の呼び方のルールについて述べていますが、それによるとこれは「親族名称の子 供中心的な使い方」で、「相手を直接自分の立場から見ることをせず、年下の子供の立場を迂回して間接的に捉えようとする」ものだということです。つまり、一番下の子供から見た親族名称で呼んでいるのです。
ですから、この会話の「お父さん」「お母さん」も孫ができれば、「おじいちゃん」「おばあちゃん」になっていくのです。
ちなみに私の母親は「おばあちゃん」と呼ばれることにかなり長い間抵抗していましたが・・・。
(吉)
【参考文献】
『ことばと文化』鈴木孝夫 著 岩波新書 1973
日本語では自分自身を呼ぶときどのようなことばを使っているでしょうか。以下は、私自身(男、50歳代、日本語教師[教師養成も担当]、ある武道の指導員)のケースです。
両親の前では → ぼく・おれ 公の席では → わたし・わたくし
友だちの前では → おれ 自分の息子の前では → とうちゃん
同僚の前では → わたし 武道の指導員として子供たちの前では
上司の前では → わたし → 先生
学生の前では → わたし 近所の子供の前では → おじさん
自分を称する言葉を「自称詞」といいますが、私の場合、どのような「自称詞」が用いられるか整理してみると、①「ぼく、おれ、わたし、わたくし」という一人称代名詞、②「とうちゃん、おじさん」という親族名称、③「先生」という役職名・職業名という三種類(①②③)の言葉が用いられることがわかります。
自称詞には「おれ、ぼく、わたし、わたくし」という一人称代名詞があります。このほかも女性や落語家が使う「あたし」という言い方もあります。英語では“I”ですが、日本語では普段使われている一人称代名詞が多くあります。砕けた言い方、改まった言い方があり、相手や場面によって使い分けられています。
次に親族名称ですが、例えば父親に属することばには、「おとうさん、とうさん、おとうちゃん、とうちゃん、パパ」などがあり、いずれも自称詞として用いられます。 「先生」という役職名は、小学生の先生が自分自身を指す言葉として用いられます。この他にも子供の前では、自分自身のことを「運転手さん、おまわりさん、お医者さん」など仕事の役割で呼ぶこともあります。
親族名称と役職・仕事の役割に共通しているのは、どの呼び方も子供がその人を呼ぶときのことばだということです。つまり、子供が自分を呼ぶ言い方をそのまま用いて自称詞としているのです。
日本語の「自称詞」は、実に多くのことばが用いられていますね。
(吉)
【参考文献】
『ことばと文化』鈴木孝夫 著 岩波新書 1973
他の人を呼ぶときにはどのようなことばを用いているでしょうか。
私自身(男、50歳代、日本語教師[教師養成も担当]、ある武道の指導員)のケースですが、以下のとおりです。
*○○=名前
両親に対して ← おとうさん・とうさん/おかあさん・かあさん
友だちに対して ← お前、○○(姓のみ)
同僚に対して ← ○○(姓)さん
上司に対して ← 理事長、社長(など役職名)
学生に対して ← ○○(姓)さん、○○(姓)君、君、あなた
武道の指導員として子供たちに対して
← ○○(姓のみ/名のみ)、
○○(姓)君[男の子の場合]、
○○(姓)さん[女の子の場合]
近所の子供に対して ← ○○(名)君、○○(名)ちゃん
息子に対して ← ○○(名のみ)/お前
他の人を呼ぶことばを「対称詞」といいますが、私の場合、どのような「対称詞」が用いられるか整理してみると、①「君、お前、あなた」という二人称代名詞、②「おとうさん・とうちゃん/おかあさん・かあさん」という親族名称、③「理事長」、「社長」という役職名、④「○○(名前のみ)、○○さん、○○ちゃん、○○君」というその人の名前という四種類(①②③④)の言葉が用いられることがわかります。ちなみに妻を呼ぶときは、「かあちゃん・○○(名のみ)」で②親族名称と④その人の名前を用いています。日本語の「対称詞」も「自称詞」と同様に数多くのことばがあります。
鈴木孝夫氏は『ことばと文化』(岩波新書)の中で、人を呼ぶときの日本語の規則性を支えているのは、「目上(上位者)と目下(下位者)の対立概念である」としています。私のケースを整理してみると、自分より目上(上位者)の人に対しては親族名称、役職名を使い、同等あるいは目下(下位者)の人に対しては二人称代名詞やその人の名前が用いられています。目上(上位者)・目下(下位者)の概念によってことばの使い分けられていることがわかります。
*目上の人を呼ぶときに適当な役職名などがない場は、「○○さん」になるでしょう。また、会社によっては上司を役職名ではなく、「○○さん」と呼ぶこともあります。(吉)
【参考文献】
『ことばと文化』鈴木孝夫 著 岩波新書 1973
日本語の二人称代名詞の代表格は「あなた」でしょう。「あなた」の使用について、“相手を指すことばとして「『あなた』を標準の形とする」”としたのは、昭和27年に国語審議会から発表された「これからの敬語」です。ただ、どうでしょうか。実際に私たちは「あなた」を標準の形として用いているでしょうか。
日本語学習者から「先生、あなたは夏休みにどこへいらっしゃいますか。」と言われたことがあります。この「あなた」の使い方はどうでしょうか。「これからの敬語」に従えば、問題のない使い方ですが、この場合は「あなた」は使えません。日本語のルールから外れた使い方です。
実は日本語の「あなた」は、英語の“you”のような感覚では使えないことばなのです。『異文化理解のための日本語教育Q&A』(文化庁国語課)には、「あなた」が用いられるのは次の場合だとしています。
(1)妻が夫を呼ぶとき
(2)目上の人が目下の人を呼ぶとき、ただし、日本語のルール上、余り一般的ではない。
(3)道でばったり会った目下の知り合いの名前をどうしても思い出せないとき、苦し紛れに使ってしまう。
二人称代名詞が使えるのは、目下の人に対してであり、目上の人に対しては使わないのが普通です。目下の人であってもその人の名前を知っているのであれば、名前で呼ぶことが一般的です。
もともと「あなた」は、同等の人や目上の人に対して敬って呼ぶことばでした。しかし、徐々に敬意が薄れて現在の使い方になってきました。ですから、日本人の中には今の使い方とは違った感覚で使っている人もいるとの指摘があります。「あなた」についての感覚が日本人の中でもこのように違うとなると、「あなた」の使い方はますます難しくなってきます。
さて、“あなた”は自分自身を、また、他の人をどのように呼んでいるでしょうか。自分の言語生活を振り返ってみてください。
*「“あなた”は自分自身を~」の“あなた”は、アンケートや広告などでよく用いられており、不特定多数を指す用法です。(吉)
【参考文献】
『異文化理解のための日本語教育Q&A』文化庁文化部国語課 1994
「フォリナートーク」と聞いて、何を連想しますか?外国人がたくさん登場するトーク番組のことでしょうか?
いえいえ、これは言語学の用語で、非母語話者と母語話者との接触場面で起きる言語変種の一つです。例えば、今、新宿駅の自動券売機の前で、外国人が路線図をじっと見つめているとします。皆さんだったら、その人にどのように声を掛けますか?「お手伝いしましょうか?」「どちらまで行かれるんですか?」と聞く方はあまいらっしゃらないのではないでしょうか。「何駅、探してるの?」「どこまで行くの?」こちらのタイプのほうが多いでしょう。
このように、私たちは相手が日本語を十分に使いこなせない人かもしれないと思うと、言葉の使い方を変えています。これがフォリナートークです。日本語の教室は多かれ少なかれ、このフォリナートークが使われています。教室内で教師が使うものは「ティーチャートーク」と呼ばれます。このティーチャートークは時には問題視されることもあるのです。(こ)つづく
ティーチャートークがなぜ問題視されることがあるかというと、それが不自然な日本語だからです。「皆さん、おはようございます。今日は、何曜日ですか。そうですね。月曜日ですね。皆さんは週末、何をしましたか。Aさん、Aさんは週末、何をしましたか。」これは、初級のクラスではよくある教師の発話です。日本語の教室ではよく使われている日本語でも、一般の人がこのような発話をすることはないでしょう。このように、日本語教師はちょっと特殊な話し方をすることがあるのです。それは、目の前の学習者の日本語能力を把握しているために、自然な日本語で話してしまうと学習者たちが理解できないことを知っているからです。「相手がわかるように話す」結果、ティーチャートークになるわけです。
だとすると、問題視の必要はなさそうですが、大切なのは、教師がどのような意識でティーチャートークをしているかなのです。例えば、日本語の勉強を始めたばかりの学習者たちのクラスでは、上の例のような発話を教師がするのは大きな問題ではありませんが、十分に日本語力のある学習者たちのクラスでも同じように発話していたら、それは問題です。ティーチャートークばかり耳にしている学習者は、普通の日本語に慣れるチャンスがないからです。自然な日本語を教えることは、日本語教師の大切な役割です。(こ)つづく
外国人相手だと、私たちの発話はどのように変わるのでしょうか。発音面ではゆっくり、単語や音節ごとに区切り、明瞭に話します。語彙面では相手に理解されやすいと思われる語を選んで使い、繰り返し使います。文法面では省略を避け、文は短めにします。その他、非言語の部分にも変化が見られ、ジェスチャーが増えたり表情が豊かになったりします。フォリナートークは日本語母語話者だけが使用するものではありませんから、英語話者が英語で私たちに話しかけるときなどにもフォリナートークが使われます。
教室でのティーチャートークは問題視される場合もあったわけですが、もっと広く使われるフォリナートークはどうなのでしょうか。私たちは街で見かけた外国人に声を掛けるときにも、外国人向けのわかりやすい話し方をしてはいけないのでしょうか。
望まれるのは、「自然で、わかりやすい話し方」をするということです。でも、これが難しいのです。これができるようになるには、実は訓練が必要なのです。(こ)つづく
「多文化共生」という言葉を見聞きするようになってだいぶ経ちますが、これは、地域社会の構成員として日本人と外国人が共に生きていくことを意味します。様々な外国人が日本に住むようになり、「外国人と話すときは英語」というのが必ずしも通用しないこと、日本語を日本人に話すように話しても通じないことが認識されつつあります。そこで必要になるのが、いい意味でのフォリナートークです。「月曜日、ビン、カン、だめ」のような言い方ではなく、「月曜日はビン、カンを捨てません」や、「ビン、カンは火曜日に捨てます」のように、相手にわかる範囲でできるだけ自然な言い方を選択することです。それも、言葉だけに頼るのではなく、カレンダーを指して確認したり、自治体から配布されている、その地域のごみの捨て方の手引きなどを渡したりすることで、理解の度合いを高めることができます。決して難しいことではありませんが、どういう工夫をすると相手の理解がたやすくなるのかは、ある程度経験がないとわかりにくいことだと思います。私たちの学校では、地域の日本語教室で外国人の日本語支援に携わる方々向けに、この工夫の仕方を知っていただく訓練を実施しています。今後は、「お隣さんは外国人」という環境が当たり前になっていくでしょう。多くの方に「いいフォリナートーク」を知っていただきたいと思います。(こ)
<参考文献>
・『日本語の教室作業-プロ教師を目指すための12章』水谷信子 アルク 2007
・「多文化共生社会で期待される母語話者の日本語運用力-研究の動向と今後の課題について」徳永あかね『神田外語大学紀要第21号』2009
・『応用言語学事典』研究社 2003
・「平成19年度文化庁委嘱『生活者としての外国人』に対する日本語教育事業 外国人に対する実践的な日本語教育の研究開発事業報告書 対話を中心とした交流活動のカリキュラム」学校法人吉岡教育学園 千駄ヶ谷日本語教育研究所 2008
初めての国を旅行する時、「こんにちは・ありがとう・さようなら」という3つの魔法の言葉を覚えておけば、それだけで相手国の人の態度が変わってくる、という話はよく知られています。旅行ガイドブックを開けば、どこかにその国の言葉の簡単な表現が日本語と対照できるように書かれていて、発音しやすいようにカタカナでルビが振られています。そこに取り上げられている表現の中には、必ずと言っていいほど先ほどの3つの魔法の言葉が含まれています。
この中で、今回は感謝の表現について取り上げますが、日本語の感謝の表現「ありがとう」の由来はそもそも何でしょう?
これは、「ありがたし」という古語の形容詞に由来するといわれています。「ありがたし(有り難し)」は、有ることが難しい、つまり、滅多にないということを意味しますが、これが、相手の好意や行為を滅多にないこととして評価する表現として使われ、やがて感謝の表現として固定化したと考えられています。
相手の好意や行為に対して感謝を表すというのはごく普通のことのように思いますが、もう10年以上前、養成講座の実習クラスでこんなことがありました。
2か月にわたる実習クラスに休まず参加してくれたインド人の女性に対して、実習生が感謝の気持ちを伝えようと、その女性の母国の言葉であるヒンディー語で「ありがとう」を何と言うのか尋ねたところ、その女性がとても困った表情をし、「Thank you」でいい、という趣旨のことを述べたのでした。実習生たちは、「ヒンディー語にはありがとう、って言葉がないの?」と、当惑していたのですが、その後、私はインドで数カ月日本語を教えることになり、その女性が言っていたことを納得することになりました。(に)つづく
(参考文献)
・『感謝表現にみる発想法の特徴』浮田三郎
インドの旅行ガイドブックにも大概片言会話集のようなものが書かれており、日常の挨拶やいざという時役立つ表現が、ヒンディー語の他、マラーティー語、タミル語等について日本語と対照する形で書かれています。
その中で、日本語の「ありがとう」に対応するものとしては、ヒンディー語については「ダンニャワード」と書かれていて、あるガイドブックには、道を尋ねて教えてもらったら、「ダンニャワード」と言ってみよう!といった趣旨のことも書かれていたのを覚えています。ところが、実際に、店で物を買ったついでに道を教えてもらった時に「ダンニャワード」と言ってみたところ、店主はある種怪訝な表情をしたのでした。同じようなことは別の場面でもありました。英語で「Thank you」と言えば、「You’re welcome」とにこやかに返してくれる人でも「ダンニャワード」と言うと途端に妙な顔をするのです。魔法の言葉がその魔力を発揮しないのでした。そこで、インド人同士のやり取りを観察していたのですが、やはり「ダンニャワード」を聞くことは結局ありませんでした。(に)つづく
(参考文献)
・『語学を生かす仕事』ほるぷ出版 2005
・『5教科が仕事につながる!英語の時間』小林良子 著 ぺりかん社 2007
ある時、ニューデリーにあるレストランで食事していたところ、店の前の通りでガチャンというすごい物音がしました。外を見てみると、道路の真ん中になぜか穴があいていて、そこに車が脱輪していたのです。運転手が驚いて車から出てくると、通りにいた男たちが一斉に車に近寄り、誰が声をかけるでもなく、よいしょ、よいしょ、とばかりにみんなで車を持ち上げ、動かしたのです。そういう時でさえ、運転手は手伝ってくれた人たちににこやかに軽く手を上げて、周りの人も笑顔で返しておしまいです。ここでも「ダンニャワード」は聞けず仕舞いに終わりました。
そこで、教えていた学習者たちにこの話をしたところ、「先生、ダンニャワードは生きている間に1度も使わないかも知れません」と笑われてしまったのです。よくよく聞いてみると、「ダンニャワード」は、命がけで助けてもらった時等に使う言葉であって、道を聞いたぐらいでこの言葉を使うと、却って相手の能力を過小評価しているような格好になってしまい、相手を見下していると誤解されてしまうことになるということでした。そして、感謝の気持ちを表したい時は、英語で「Thank you」と言えばいい、と言うのです。ああ、そういうことか、と妙に納得し、改めて言葉と文化というものを考えさせられたのでした。(に)つづく
(参考文献)
・『語学を生かす仕事』ほるぷ出版 2005
・『5教科が仕事につながる!英語の時間』小林良子 著 ぺりかん社 2007
「この間はごちそう様でした」
この挨拶を聞けば、大概の日本人は状況がつかめるだろうと思います。ごちそうになった人が、ごちそうしてくれた人に再会した時の挨拶だろうというわけです。もちろん、ごちそうしてもらった時にも感謝の言葉は述べているわけですが、再会した時にまた感謝の言葉を繰り返す、これが日本的な感謝の表し方といわれています。つまり、日本人は、最低2回はお礼を言うわけです。しかし、これが外国人にはなかなか理解できないようです。
初級レベルの日本語の教科書の中には、会話教材の中に過去のことに対してお礼を述べる場面を取り入れていたり(例:『コミュニケーション日本語3』第39課・会話2)、2回のお礼を取り入れていたり(例:『みんなの日本語初級Ⅱ』第41課)しており、当然、授業の中ではその教材を扱う時に、文化的背景について何らかのコメントがなされると思いますが、学習者を観察していると、必ずしも日本人相手に実践できているとは言えないようで、「いろいろ相談に乗ったりしたんですけど、出て行ったらなしのつぶてで……」等というアパートの大家さんの愚痴を聞かされたこともありました。
こうした日本の感謝の表現については、恩を重んじる精神の表れであるとか、その後の関係の更なる構築のためであるとか、貸し借りを短期的に精算するためである、といった説明がなされます。しかし、こうした日本の文化背景を解説する一方で、相手の文化も理解して、他人の粉を自分の秤で測るような押しつけの態度は慎んで付き合っていく姿勢が必要なのではないかと思います。(に)
(参考文献)
・『日本語・新版・下』金田一春彦 著 岩波新書 1988
・『とらえどころのない中国人のとらえかた』宮岸雄介 著 講談社+α新書 2007
・『「感謝」と「謝罪」-はじめて聞く日中“異文化”の話』相原 茂 著 講談社 2007
日本語クラスで「とおい」と板書すると、「どうして、“お”ですか」と質問が出ることがあります。この前勉強した「おとうさん」は『“オトーサン”と発音しますが、「う」と書きます』と習ったのに…、という疑問からです。
外国人が日本語を学ぶときには、ルールを理解して効率よくおぼえていきますが、何事にも例外はあり、日本語の表記も同様です。その例外にも基を正せば成り立ちがあるのですが、学習者の理解できる日本語レベルに配慮して「(例外だから)おぼえてね」と、説明なしの力技で進めてしまうことがよくあります。
思い起こせば、私達が小学生の時にも「お父(とう)さん、交(こう)通、扇(おうぎ)」、「大(おお)きい、遠(とお)い、通(とお)る、氷(こおり)」と、ひらがなで読みを書かせるテストが繰り返し出ていました。お陰でおぼえはしましたが、「どうして?」は封印されたままでした。子供の頃にはよくあることですが、「いいから、おぼえなさい」と言われたことの一つだったように思います。(た)
日本語の文字には、ひらがな、カタカナ、漢字などがありますが、漢字が表意文字(意味を表す文字)であるのに対し、ひらがなとカタカナは表音文字(音を表す文字)です。
しかし、例外がありますね。
助詞の「は」「へ」は音と異なる字を使います。「えきは(×わ)あそこです。」「よこはまへ(×え)いきます。」助詞の例外はこの2つと「を」だけなので、簡単です。「じ」「ぢ」「ず」「づ」の使い分けもあります。(四つ仮名については『四つ仮名「じ」「ぢ」「ず」「づ」(第177~180)』で取り上げています。)
日本語を学ぶ学習者が特に戸惑うのは、ルールが示されずにおぼえなければならない長音の表記です。のばす音をひらがなで書くときをみてみましょう。ア列の長音は「おかあさん」「おばあさん」、イ列は「おにいさん」「おじいさん」、ウ列も「くうき(空気)」「すうじ(数字)」と音のままです。ところが、エ列は「おねえさん」「ええ」もありますが、他にどうですか。「とけい(ケー)」「えい(エー)が」というように、「い」を書くこともありますね。また、オ列は「おとうさん」「とうきょう」「そうじ」と「う」を書くものと「おお(オー)きい」「とお(トー)い」など「お」を書くものがあります。この場合、「とケー/とケイ」あるいは「オーきい/オオきい」いずれの発音にするかは定められていないようですが、共通語の元になった東京ではのばす音で発音されることが多いようです。(た)つづく
長音をひらがなで書くときの例外については、日本語表記の変遷の中で決められたことなので、外国人がおぼえるために示せるルールにはなりません。日本語をロジックで学びたい学習者が「やれやれ…」といった表情になるのも無理はありません。
今、使われているひらがな表記は、1986(昭和61)年、内閣告示された「現代仮名遣い」によるものです。その中に「現代語の音韻に従って書き表すことを原則とし、一方、表記の慣習を尊重して一定の特例を設けるものである」と書かれています。明治以降、戦後まで使われてきた「歴史的仮名遣い」の名残りが音と一致しない表記の特例(例外)を生み出しているということのようです。次回は長音のひらがな表記について、その基本と例外を具体的に見ていきましょう。(た)つづく
長音のひらがな表記について、具体的に見ていきましょう。私たちが現在使っている「現代仮名遣い」(1986年内閣告示)では、次のように書かれています。
(1)ア列の長音 ア列の仮名に「あ」を添える。(おかあさん)
(2)イ列の長音 イ列の仮名に「い」を添える。(にいさん)
(3)ウ列の長音 ウ列の仮名に「う」を添える。(くうき)
(4)エ列の長音 エ列の仮名に「え」を添える。(ねえさん)
(5)オ列の長音 オ列の仮名に「う」を添える。(おうぎ)
この中で、特例として(4)(5)に次のようなものが挙げられています。
エ列の仮名に「い」を書く例として、とけい(時計)、えいが(映画)、ていねい(丁寧)等。また、「歴史的仮名遣い」でオ列の仮名に「ほ」又は「を」が続くものには「お」を書く例として、こ[ほ→お]り(氷)、ほ[ほ→お](頬)、と[ほ→お](通)る、と[を→お](十)等。(前々回にも書きましたが、これらの発音は「ケー/ケイ」あるいは「コー/コオ」いずれもあり、発音に関わらずとの但し書きがついています。)
「歴史的仮名遣い」をまだ知る由もない子供の頃には、一つ一つおぼえるしかありませんでしたが、日本語初級レベルの外国人にとっても同様です。
「こんにちゎ! そおいえば、…こおゆーとき、どおすればいいの?」このメールの発信元は、私の娘です。日本語教師をしている母親へのメールには、もう少し気を遣ってほしいのですが…。しかし、日本語はこの先、音のまま表記する方向に動いていくのかもしれません。「とうい?とおい?」「えいが?ええが?」と格闘している外国人を見ていると、それも良しかな、と感じるのですが、皆さんはいかがですか。(た)
<参考資料>
・「新しい国語表記ハンドブック第六版」三省堂2011
・「日本語教育講座4 日本語の歴史」千駄ヶ谷日本語教育研究所2003
最近よく「DQNネーム」という言葉をネットで見かけます。なんと読むかというと「ドキュンネーム」です。みなさんご存知でしたか。
まず「DQN」というのはインターネットスラングで、「非常識で知識が乏しい人」や不良(ヤンキー)を指す蔑称です。「DQNネーム」というのは、わかりやすくいうと、「子供の名前に見られる、暴走族のような当て字や漫画・アニメ・ゲームなど架空のキャラクターからとった当て字の名前のうに、読みづらい名前や、常識的に考えがたい戸籍上の名前のことです。例を挙げると「心愛」と書いて「ここあ」と読む、「花紗鈴」と書いて「きゃさりん」と読むなどです。「光宙」はなんと読むでしょうか。…答えは「ぴかちゅう」です。実在の人の名前です。実際に、この名前を子どもにつけている人がいるということです。
もちろん一概にこれらの名前が「悪い」と断じることはできませんが、今までになかった名前であることは確かですし、「DQNネーム」という蔑称がついてしまうぐらいですから、世の評判は芳しくないようです。しかしなぜ、このような名前をそもそも付けることができるのでしょうか。次回は名前の付け方と漢字について考えたいと思います。(田)つづく
前回は「心愛」と書いて「ここあ」と読む、「光宙」と書いて「ぴかちゅう」と読む、という珍しい名前をご紹介しました。しかし「心愛」と書いて「ここあ」と読むのがなぜ許されるのでしょうか。漢和辞典を引くと、「心」は「ここ」とは読まないし、「愛」も「あ」と読むとは書いてありません。漢和辞典の中には「常読」という通常用いられる音訓読みのほかに、「名づけ」という項目があり、そこには名前で使う読み方が載せられています。その項目を調べてみると、「愛」の場合、「あき/さね/ちか/ちかし/つね」などの普段あまりなじみのない読み方も載せられていますが、そこにも「心」=「ここ」、「愛」=「あ」は載っていません。「ぴかちゅう」の「ぴか」は…ご想像の通り載っていません。それなのに、なぜこれらの「ここあ」や「ぴかちゅう」という名前が許されているのか、謎が深まるばかりです。(田)つづく
なぜ「心愛」と書いて、「ここあ」と読む名前が許されているのかを知る前に、基本的な名前の付け方のルールを紹介します。まず名前に使用してよい文字ですが、「漢字」「漢数字」「ひらがな」「カタカナ」「長音記号」「繰り返し記号」となっています。長音記号と言うのは「ー」で、「ヨーコ」「ジョージ」など延ばす音に用いられる記号です。また繰り返し記号は「々」「ゞ」などで、「奈々」「いすゞ」など続けて同じ音を、もしくは同じ音の濁点がつくものを表すのに用いられます。反対に使ってはいけない文字は、アルファベットや算用数字、ローマ数字などです。もちろん「、」「。」などの記号も使用不可です。ここまではなんとなく常識として理解できるルールだと思います。
一方、意外なこととして、名前の長さには特に制限が設けられていません。また組み合わせにも制限がないので、「じゅげむじゅげむごこうのすりきれ…」という落語で有名なこの名前も法律上はつけてもよいのです。(あまりに不適切だと判断され受理が保留になる場合もありますが) (田)つづく
さて、話が少しそれましたが、肝心の「心愛」と書いて「ここあ」と読む名前がなぜ許されているかについてです。戸籍法第50条では、「子の名には、常用平易な文字を用いなければならない。」「常用平易な文字の範囲は、法務省令でこれを定める。」とあります。またその中で、漢字の使用については「常用漢字」と常用漢字以外に特に名前に使用してよいとされる漢字、いわゆる「人名漢字」が使用を認められています。つまり使ってよい漢字とそうでない漢字があるということです。常用漢字にも人名漢字にも当てはまらない、たとえば「玻」などは、使用不可ということになります。
しかしながら、これもまた驚くべきことに常用漢字と人名漢字に当てはまりさえすれば、「読み方」については特に制限が設けられていないのです。つまり漢字そのものには制限があっても、その漢字が使用できれば、どのように読み方を付けてもよいということなのです。「心愛」は「心」「愛」ともに常用漢字として定められているので、もちろん名前に使用でき、それを「ここあ」と読もうが、「しんでぃー」「あきこ」と読もうがかまわないというわけです。ここに「DQNネーム」(※DQNネームがお分かりにならない方は第1回をご参照ください)の誕生の理由があります。(田)つづく
「心愛」と書いて「ここあ」、「花紗鈴」と書いて「きゃさりん」、「光宙」と書いて「ぴかちゅう」と読む、最近の珍しい人名について話を進めてきましたが、今度はどうやって「花紗鈴」「光宙」という漢字が当てられたのかについて考えてみたいと思います。
「当て字」の方法は、①「字義を無視し、読み方のみを考慮して漢字を当てる」、②「漢字の読み方を無視して、字義のみを考慮して当てる」の2パターンあります。。たとえば①は「インド」=「印度」で、②は「ミッドナイト」=「真夜中」などがそうです。 それでは、「花紗鈴」「光宙」は①②のどちらのパターンにあてはまるでしょうか。①にのっとって考えると、音に忠実に漢字を当てないといけないので、「脚差厘」「非可宙」などになってしまいます。では②でしょうか。確かに「花紗鈴」という字の組み合わせは女性らしい雰囲気に合っていますし、「光宙」は壮大な宇宙を感じさせます。しかし、②にのっとって考えたにしては、漢字の本来の読みに音が非常に似ています。(田)つづく
前回の続きです。「ここあ」=「心愛」、「きゃさりん」=「花紗鈴」、「ぴかちゅう」=「光宙」と読む珍しい人名の漢字がどのように当てられたかを考えていました。「当て字」の方法は、①「字義を無視し、読み方のみを考慮して漢字を当てる」と②「漢字の読み方を無視して、字義のみを考慮して当てる」の2つがありますが、前出の名前の場合は、①②の両方を用いています。つまり「読み方を考慮しつつ、字義も考えている」のです。
たとえば「ここあ」=「心愛」の場合、音の響きを考えたのが先か、漢字の字義を考えたの先かはわかりませんが、「かわいらしい音の響きがいい」ということと、「心優しく、愛の溢れる子に育ってほしい」という願いとを同時に考慮した名前なのです。
DQNネームというと世間の評判は芳しくないようですが、その成り立ちを考えると、一つの文字で一つの音を表す表音文字「ひらがな」「カタカナ」と、一つの文字で一つの意味を表す表意文字「漢字」を両方あわせもつ、日本語ならではの名前の付け方だということがわかりました。(田)
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